豊国祭礼図の豊国神社本と徳川本の比較。さらに、来歴と絵の中に隠された意図も探る。関ヶ原の戦いから大坂城落城まで16年かかり、その間に豊国大明神臨時祭礼があったとは。
秀頼( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC )・淀君( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%AE%BF )母子の大坂城おこもりと京都の徳川方にも顔が効く高台院( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%B0%E9%99%A2 )の対立が裏にある。
吉田神道(兼俱)が天下人を即に神にする開祖だ。秀吉は「神」として「新八万」を希望していたが「豊国大明神」に落ち着く
豊臣家と大仏は、最後の輝きだったように思われる:
1595年 方広寺大仏(木製漆塗金張坐像)、96年慶長伏見地震で損壊
1598年 醍醐の花見(以降、赤痢で伏す)、秀頼と徳川の孫娘千姫の婚約を家康に託す、秀吉逝去、「豊国大明神」社に
1600年 関ヶ原の戦い、六条河原の西軍の処刑
1603年 家康征夷大将軍に
1603年 二代目銅製金張坐像は工事中に焼失
1604年 豊国大明神臨時祭礼:家康主催、秀頼と淀君は立ち会わず
1605年 嫡男秀忠が将軍に、豊国神社本作成(翌年奉納)
1611年 度重なる高台院からのすすめもあり秀頼ようやく上洛し二条城で家康と面会
1612年 3代目大仏開眼・大仏殿建立
1614年 方広寺鐘銘事件( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3 )
1614,5年 大坂冬の陣と夏の陣、豊臣家滅亡、千姫助命、豊国社も徳川が取り潰し荒廃
1616年 家康没
豊国神社本:1605年に秀頼と淀君注文、狩野内膳作、片桐攤且元の奉納、高台院を皺だらけで怖い顔に、その他は写実的かつ正確な描写。高台院へのあてつけのような位置付けだ。
徳川本:蜂須賀家政(小六の子、蓬庵)注文、岩佐又兵衛作、徳川につくが豊臣恩顧に中田(小松島 https://www.city.komatsushima.lg.jp/institution/shisetsu/facility102/ )の分祀した豊国大明神之社(1614年 制作もこの頃か)へ奉納、死後高野山高明院(関ヶ原の戦いの時に閑居などつながりあり)に没後豊国祭礼図を寄進か。明治の高明院火災に蜂須賀家援助の返礼に1888年蜂須賀家に豊国祭礼図が戻る。昭和の初め蜂須賀家の売立により徳川黎明会に渡る。
有名な、「かぶき者の乱闘」の朱鞘に「いきすぎたりや廿三 八まん ひけはとるまい」は摂関家として23歳で亡くなった秀頼をさし、「八まん ひけはとるまい」は大坂夏の陣のことか。(手勢が約8万人、それとも秀吉が「新八幡」を望んでいたためか)近くに淀君の手が出る手輿も、卍紋の蜂須賀と梅鉢紋の前田が止めようとするのも描かれている。https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/18957
16年間の豊臣末期の時代と、大坂城にこもっていた秀頼と淀君の母子関係により不満が鬱積し、豊臣家の象徴である豊国神社と再建( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82) )にこだわった様子が伺える。権勢を誇る 梵鐘の事件が豊臣の滅亡につながり、さらに家康も「成し遂げた」と思ったのか亡くなったのは「因果は巡る」とか「人を呪わば穴二つ」としか言いようがない。高台院のみがこの荒波を乗り切った。
真相はともかく、絵図からの読み取りが面白い。この作者の三部作シリーズは洛中洛外図もある。
なお、上京・下京による風流の情景の部分など、当時の風俗の貴重な資料でもある。今度ゆっくり見よう