みみずのしゃっくり

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いわゆる「8週齢」問題については、こちらをご覧ください。六つ子の仔猫の動画もあります。

最新記事は、この下です↓
通常1日おきに更新の予定ですが、2日おき、あるいは3日おきになることもあるかも・・・(^v^;)

150年序

2015-06-22 | 旧市街

いよいよゴタゴタ期が始まります つまり、更新まばら期になります

その直前、6月20日のNZZ(新チューリヒ新聞)に2ページのリンク大通り特集が載りました。
スイスの新聞(と言ってもヨーロッパを代表する高級紙のひとつ)にオーストリアの首都の大通りが特集されているわけです。(リンク大通り開通150周年記念記事)


1ページ目:ウィーンの解放


上の写真をちょっとアップ:1885年の写真

リンク大通り開通宣言から20年後の様子

左手に、美術史博物館自然史博物館エプシュタイン宮殿、突き当たりに国会議事堂が見えます。

2ページ目:前ページの続きと別のリンク大通り記事


上の写真をちょっとアップ:1858年、城壁撤去中(右端はドナウ運河)

赤い塔は撤去され、城門がまだ残っています


記事「ウィーンの解放」要点(カッコ内は私の注)
1683年オスマントルコの第二次ウィーン攻囲のトラウマが長く続き、長く防壁と突堤が撤去されなかったが、それは社会進歩の大きな妨げとなっていた。周辺部には市民の町が発展し、防壁内の旧市街には皇帝の宮殿、貴族、高位聖職者、行政府、市民がひしめき合っていた。当時ウィーンを訪れたイギリスのレディー・モンタギューは「ここでは街の上に街を重ねるつもりらしい」と皮肉っている。

既に1741年、ベネディクト会の修道士アンセルム・デシンクは「この場所(防壁と突堤)に家を建てることが許されるなら、多くの美しい宮殿が建てられ、世界に類例のない都市が誕生するだろう」と述べている。

(大砲の射程距離など軍事技術の大幅進歩によって)中世からの防壁は全く意味を持たなくなった。1809年に一時ウィーンを占領したナポレオンが防壁の一部を爆破していったのは、いわば象徴的な出来事だった。

1857年のクリスマスにフランツ・ヨーゼフ皇帝の発した勅令は「ウィーン新聞」に公表された。
「ウィーン市街を周辺町村と結び付け拡張する工事が一刻も早く開始され、我が帝都たる首都が整備されること、これが私の意思である。」

これは他に類例の無い大規模な都市開発計画で、国際的建築コンペティションが実施され、受賞プランは無かったが、主要な応募作のアイデアが取り入れられ、1859年には基本プランが皇帝に許可された。この都市開発計画はパリの近代化とは全く異なり、極めて慎重に数十年をかけて実施された。
防壁・突堤撤去によってできた空き地の半分以上が道路に充てられた。

リンク大通りは建築の実験場となり、当時(フランツ・ヨーゼフ皇帝の基本姿勢により)全面的な市民権を得たユダヤ系上流市民が次々と歴史的建築を実現し「ユダヤのブールヴァール」と呼ばれた。その輝かしい時代は、ナチスのオーストリア併合とともに終わりを告げたが、彼らの遺した歴史的建築は、今もウィーンで光彩を放ち続けている


ここに150年の歴史概要と数々の写真を紹介するつもりでしたが、それは、かなり時間を要するので、今回は「序」だけにしました。


以下ウィキ・フリー画像から

中世から近世へのウィーンの様子

防壁と壕、その外側に兵士を配置する突堤のあるのが良くわかります

1858年段階の市街図

環状の白い部分にリンク大通りとそれを飾る建築、公園などが造られました


現代のリンク大通りらしい画像を2つ

2013年のブラスバンド・フェスティバル


2013年、自動車に反対するデモンストレーション

車道部分に臨時の芝生を敷いてゴロゴロ。これも「座り込み」の一種


以前のリンク大通り記事
スルメ150年
霧の日
その他略



以上「150年」の序でございます。まばら更新で続きを紹介いたします 
でも恒例、乞無期待