もうひとつの11月11日です。
1918年11月11日、フランス北西部
コンピエーニュの森で、
第一次世界大戦(当時の名称は単に「大戦」)の停戦協定が結ばれました。
停戦協定会談の写真(に着色したもの)
テーブルについている4人の右2人がフランス代表、左2人がイギリス代表、立っている人物がドイツ代表。
人名については、ウィキ:
ドイツと連合国の休戦協定(第一次世界大戦)をご覧ください。
これによって戦闘行為は全面的に停止されました。
この点だけでは、第二次世界大戦よりシンプルでした。
毎年11月11日は、ウィーンのフランス大使館にも国旗が掲げられます。フランスとベルギーでは祝日です。
アメリカでも11月11日は
復員軍人の日となっています。
追記:オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・ヨーゼフ皇帝がセルビアに宣戦布告したのが第一次大戦の始まりなのに、コンピエーニュの森にオーストリアの代表がいないのは何故かを書き忘れました。オーストリアは既に11月3日に
ヴィラ・ジュスティ停戦協定を結んでいたのです。
コブレンツのライン川を渡って引き上げるドイツ軍兵士
この時期、ドイツ帝国最後の皇帝は退位亡命し政府は崩壊状態で、
ヒンデンブルクからの指示で、ドイツ側は何としても停戦協定を成立させねばならない状況にありました。このため無条件降伏に近い悪条件を受け入れた
主席全権は後に右翼テロリストに暗殺されました。
冷戦という厚いカバーが崩壊した後噴出してきた数々の紛争や問題は、第一次大戦の戦後処理に起因しています。当時フランスとイギリス(の政治的首脳部)が最も恐れていたのは、大戦(つまり第一次大戦)の後には、最終的覇権をめぐる英仏間の戦争が始まるという危惧でした。これを回避するためのしわ寄せが専らドイツに押し付けられました。オスマントルコ帝国崩壊とオーストリア・ハンガリー帝国崩壊の事後処理にも多くの問題が有りました。従って、この時点で既に第二次大戦への長い導火線が敷かれ、点火されていたと言えるでしょう。
もうひとつのドイツ語圏における問題が
Dolchstosslegende(背後の一突き)と呼ばれるデマ宣伝の蔓延です。
その内容を端的に表した1919年のオーストリアの絵葉書
つまり、ドイツ軍は負けるはずがなかったのだが、後方の臆病者(反戦運動を行った平和主義者)やユダヤ人の陰謀によって敗戦に追い込まれたという根拠の無い主張です。
しかし、漸く市民としての正当な地位を獲得しながら、
反ユダヤ主義の台頭に直面したドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国のユダヤ人にとって、この戦争は祖国への忠誠を証明し完全な市民として受け入れられるための貴重なチャンスでした。とりわけオーストリアの場合、王朝内の様々な民族が独立を目指している中で、皇帝に対する忠誠心が最も強かったのはユダヤ人でした。
ついでながら、根拠の無いデマも社会の状況次第で急速に広まります。
ゲッペルスは「ウソも100回言えば本当になる」と言っています。
2014年は第一次大戦勃発100周年でしたが、100周年は今も続いています。100年前の1916年は、まだ、どちらが勝つかわからない戦況でした。
しかし、大戦勃発時には、連合国側も中央同盟国側も、数ヵ月で勝負がつくと予測し、いずれの側も勝利を確信していたようです。