フランツ・ヨーゼフ皇帝の銅像がある公園を散歩してきました
目下クリスマス前のアドヴェント期間中で、市内あちこちのクリスマス市は混雑していますが、人混み苦手の私は今年はクリスマス市スルーの予定
1)リンク大通りの一角
2)そこに公園入り口があります
3)説明のプレート
王宮庭園と呼ばれています
王宮庭園は1818年から1823年に造園され、ハプスブルク皇帝家のプライベートな「庭」でしたが、第一次大戦後オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した翌年1919年から一般公開されるようになりました。
4)庭園の中
5)刈り込まれた並木も葉の落ちた後
6)大通りに背を向けてたたずむ皇帝の銅像
7)そのシルエット
8)離れてみたところ
9)葉の残っている枝
10)黄葉の大木
11)立派な常緑の松もあります
フランツ・ヨーゼフ皇帝(1830~1916)は、1848年の三月革命の後18才で即位、第一次世界大戦の最中に86才で世を去りました。
超保守的な人物で、生涯、電話も自動車も使わず、国を支えるのは軍隊の力だと信じていたようです。
息子を皇帝にしようとする母親のスパルタ教育で育てられ、母親の指図に逆らうことはありませんでしたが、母親が結婚相手に予定していた女性の妹の一目惚れし、このときは自分の意志を貫きました。
しかし、皇妃となったエリーザベトと皇帝は全く違うタイプで、年とともに疎遠になり、皇帝の片思いの夫婦だったと言えます。
多民族帝国は民族主義台頭とともに目に見えて崩壊への過程をたどり、メキシコ皇帝となった弟マクシミリアンがメキシコ革命の中で銃殺され、唯一の息子ルドルフ皇太子が自殺し、エリーザベト皇妃が暗殺され、その後皇位継承者になったフランツ・フェルディナント大公がサラエボで暗殺されるなど、次々と身内を不幸な事故で失っています(このほかにも親戚が事故死している)。
王権神授説を信じる旧弊な思考に凝り固まっていたとはいえ、それは幼少からの教育によるもので、個人的には誠実で規律正しく勤勉でした。
臣民のための謁見の日が設けられ、高位の貴族から貧民まで、差別なく誰でも皇帝に謁見することができました。
公式の行事は皇帝に相応しく豪華なものでしたが、日常生活は極めて質素でした。
公式の席では軍服を着用し、そうした幾つかの軍服以外には、まともな背広など持っていなかったということです。私服と言えば、狩猟用の服くらいだったようです。
皇帝自身も、自分の没後に帝国が崩壊するであろうことを察知していたと思われます。それでも、フランツ・フェルディナント大公が暗殺された後、セルビアに対する宣戦布告に署名して、これが第一次大戦の始まりとなりました。
ウィキ・フリー画像から
1853年、結婚1年前の肖像画
狩猟服姿の晩年の皇帝
父としての皇帝に対する評価を、三女のマリー・ヴァレリーが日記に書き残しています。初めは、父親に冷たい母親の態度を不審に思い、次いで「あんな人物(父親)では母親が嫌がるのも無理はない」となり、やがて「難しい問題が起こると誰でも皇帝に押し付けようとする」と、父親の皇帝としての立場に同情するようになっています。
公園については続きます ・・・乞無期待
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