昨日行った 古墳展示館に ダイコンが 展示されていました
私は 火山灰土壌で 煙草栽培に適しているっていうなら
鹿児島の桜島大根みたいに 秦野も 大根栽培に適していたのね~
くらいに 軽く考えて 展示の説明は よく読まずに 素通りしちゃいました
帰ってきて調べたら そういうことではなかったようです
以下は「やさいの時間」で有名な 藤田 智さんの 文章の一部です
5.失われた地方品種-波多野(秦野)大根-
神奈川県西部に位置する秦野市の大根地区は、文字通り、かって「波多野
(秦野)大根」という江戸幕府献上品にもなった大根の生産地帯で、小田急
線の「東海大学前」駅付近一帯の地区である(10年ほど前までは駅名も「大
根(おおね)」)。
波多野大根は、きわめて細長い形をしており、現在の「守口大根」と類似している。
1985 年に秦野市のとなり、伊勢原市の恵泉女学園短期大学に勤務した筆者は、
いつしか波多野大根に興味を覚えるようになり、秦野市の図書館等で、
歴史書や資料を収集し「今も存在するか」検討してみた。
文献等の分析では、「波多野大根は明治時代中頃ですでに消失してしまった」という結論に至った。
江戸時代中期に換金作物として有利な「タバコ」が導入され、
その結果、他の農作物の栽培、とくに波多野大根の栽培が減少し、失われたのであった。
しかし、波多野大根に対する著者の情熱は、むしろ一層燃え上がり、
当時の上司・杉山信太郎教授と共に、波多野大根の生存株を求めて、
金目川と水無川の上流から海岸部までの一帯の調査を行ったのである。
しかし、残念ながら夢の波多野大根に出会うことはなかった。
…ということで 波多野ダイコンは 消滅したということです
ところが こんな記事も 見つかったのです
「甦れ、波多野ダイコン」 特産品として地域振興に 掲載号:2014年3月22日号
かつて秦野で栽培され、今では消滅したとされる「波多野(はたの)ダイコン」。
東海大学大学院人間環境学研究科2年生の礒野絵理さん(24)と同大学教養学部4年生の鈴木裕也さん(22)が、復元を目指し研究を続けてきた。
波多野ダイコンとは、長さ約60cm、胴回り約4・5cmの細長い形状をした在来種。
文献によると、江戸時代には特産品として領主への献上品にも用いられていたという。
しかし1707年(宝永4年)、富士山が大噴火し、降灰によって栽培が困難になりその後絶えたと考えられている。
礒野さんと鈴木さんは、消滅した波多野ダイコンを復元し、いずれは秦野の特産品として地域振興につなげようと研究をスタート。
園芸学の専門家に助言をもらい、かつての種子が川を流れてきた可能性があることから、
金目川中流から花水川河口までを調査。
ダイコン様植物体110個体から波多野ダイコンに形態が近い個体の種子を採取、栽培した。
昨年12月、胴回り約7センチ、根が140cm近い長さの個体を収穫。形態調査ならびにDNA解析の結果、波多野ダイコンに近い性質のものであることが示唆された。
結果について、礒野さんは「思いのほか細長い個体が採れた。このような形態を安定して得るためにはさらなる育種が必要」と、喜びつつも今後の可能性を見据えた。
鈴木さんも「まだまだこれから。本当に波多野ダイコンに近いものなのか、引き続き調べていかなければならない」と話した。
2人はともに今年卒業を迎える。今後はこの春から4年生になる横山留萌(るもい)さん(20)が研究を引き継ぐ予定。
先輩たちの研究に励む姿を見て、天候に左右されたりと栽培管理の大変さを感じつつも「早く形態を確立させたい」とやる気を見せた。
先輩2人からは「しっかり計画を立てて、1年間を有効に使ってほしい」とアドバイス。後輩にエールを送った。
収穫後は、研究室の面々で大根おろしにして試食。しかし「正直、味の方は…」と鈴木さんは苦笑い。
江戸時代の文献には、当時は漬け物や煮物として食されていたと記されており、地域振興につなげるため調理方法なども色々試したいと話した。
学校給食での利用やイベントでの展示など、特産品としての可能性に期待を膨らませている。
…ということで なんだか面白そうな話です
小田急線東海大学前駅の名前が 昭和62年(1987年)までは
大根(オオネ)というな名前の駅だったのは 私の記憶にも残っています
まだ30年は経っていないことですものね
「大根」という駅名と 波多野ダイコンが どんな関係だったのか
もう少し 詳しく 調べてみたい気がします
私は 火山灰土壌で 煙草栽培に適しているっていうなら
鹿児島の桜島大根みたいに 秦野も 大根栽培に適していたのね~
くらいに 軽く考えて 展示の説明は よく読まずに 素通りしちゃいました
帰ってきて調べたら そういうことではなかったようです
以下は「やさいの時間」で有名な 藤田 智さんの 文章の一部です
5.失われた地方品種-波多野(秦野)大根-
神奈川県西部に位置する秦野市の大根地区は、文字通り、かって「波多野
(秦野)大根」という江戸幕府献上品にもなった大根の生産地帯で、小田急
線の「東海大学前」駅付近一帯の地区である(10年ほど前までは駅名も「大
根(おおね)」)。
波多野大根は、きわめて細長い形をしており、現在の「守口大根」と類似している。
1985 年に秦野市のとなり、伊勢原市の恵泉女学園短期大学に勤務した筆者は、
いつしか波多野大根に興味を覚えるようになり、秦野市の図書館等で、
歴史書や資料を収集し「今も存在するか」検討してみた。
文献等の分析では、「波多野大根は明治時代中頃ですでに消失してしまった」という結論に至った。
江戸時代中期に換金作物として有利な「タバコ」が導入され、
その結果、他の農作物の栽培、とくに波多野大根の栽培が減少し、失われたのであった。
しかし、波多野大根に対する著者の情熱は、むしろ一層燃え上がり、
当時の上司・杉山信太郎教授と共に、波多野大根の生存株を求めて、
金目川と水無川の上流から海岸部までの一帯の調査を行ったのである。
しかし、残念ながら夢の波多野大根に出会うことはなかった。
…ということで 波多野ダイコンは 消滅したということです
ところが こんな記事も 見つかったのです
「甦れ、波多野ダイコン」 特産品として地域振興に 掲載号:2014年3月22日号
かつて秦野で栽培され、今では消滅したとされる「波多野(はたの)ダイコン」。
東海大学大学院人間環境学研究科2年生の礒野絵理さん(24)と同大学教養学部4年生の鈴木裕也さん(22)が、復元を目指し研究を続けてきた。
波多野ダイコンとは、長さ約60cm、胴回り約4・5cmの細長い形状をした在来種。
文献によると、江戸時代には特産品として領主への献上品にも用いられていたという。
しかし1707年(宝永4年)、富士山が大噴火し、降灰によって栽培が困難になりその後絶えたと考えられている。
礒野さんと鈴木さんは、消滅した波多野ダイコンを復元し、いずれは秦野の特産品として地域振興につなげようと研究をスタート。
園芸学の専門家に助言をもらい、かつての種子が川を流れてきた可能性があることから、
金目川中流から花水川河口までを調査。
ダイコン様植物体110個体から波多野ダイコンに形態が近い個体の種子を採取、栽培した。
昨年12月、胴回り約7センチ、根が140cm近い長さの個体を収穫。形態調査ならびにDNA解析の結果、波多野ダイコンに近い性質のものであることが示唆された。
結果について、礒野さんは「思いのほか細長い個体が採れた。このような形態を安定して得るためにはさらなる育種が必要」と、喜びつつも今後の可能性を見据えた。
鈴木さんも「まだまだこれから。本当に波多野ダイコンに近いものなのか、引き続き調べていかなければならない」と話した。
2人はともに今年卒業を迎える。今後はこの春から4年生になる横山留萌(るもい)さん(20)が研究を引き継ぐ予定。
先輩たちの研究に励む姿を見て、天候に左右されたりと栽培管理の大変さを感じつつも「早く形態を確立させたい」とやる気を見せた。
先輩2人からは「しっかり計画を立てて、1年間を有効に使ってほしい」とアドバイス。後輩にエールを送った。
収穫後は、研究室の面々で大根おろしにして試食。しかし「正直、味の方は…」と鈴木さんは苦笑い。
江戸時代の文献には、当時は漬け物や煮物として食されていたと記されており、地域振興につなげるため調理方法なども色々試したいと話した。
学校給食での利用やイベントでの展示など、特産品としての可能性に期待を膨らませている。
…ということで なんだか面白そうな話です
小田急線東海大学前駅の名前が 昭和62年(1987年)までは
大根(オオネ)というな名前の駅だったのは 私の記憶にも残っています
まだ30年は経っていないことですものね
「大根」という駅名と 波多野ダイコンが どんな関係だったのか
もう少し 詳しく 調べてみたい気がします