沖縄が梅雨明けをしたそうだ。例年より1週間ほど早いとのこと。関東の梅雨明けは沖縄よりも1ヶ月ほど後というのが例年のパターンだから、今年は7月20日ごろになるのだろうか(そういう単純な話ではないのかな)。その頃の私は授業はもう終わっていて、テストの採点に追われているであろう。テストの採点は大変だが、それを終わらせれば「な○○○み」が待っている。い、いけない。まだその言葉を口にしてはいけない。封印を剥がすのはもう少し先だ。ふぅ、危ないところだったぜ。
お昼から大学へ。電車の中で武者小路実篤「お目出たき人」を読む。妄想的な恋愛小説である。恋愛には多かれ少なかれ妄想的な要素がある。しかし、これほどの妄想にはめったにお目にかかれまい。剥製にして博物館に保管しておきたいような妄想だ。主人公の26歳の青年は、近所に住む「鶴」という女学生のことが好きになり、一言の言葉も交わさないまま、彼女も自分のことを好きに違いないと確信し(ここがすごいところなのだ)、人を介して彼女に求婚し、そして断られる。しかし、その後、何度も求婚し、その度に断られ、しまいに彼女は主人公の知らない男と結婚してしまう。さすがに主人公は打ちひしがれ、涙する。ところが、最後の最後で彼はこう思うのだ。
「其後暫らくして自分は何時のまにか鶴は自分を恋していてくれたのだが父や母や兄のすすめで進まずながら人妻になったのだと理由もなしに思うようになった。そうしてそれから一月もたった。今は鶴をあわれむような気分になった。そうして鶴の運命が気になりだした。/自分はこの感じがあやまっているか、いないかを鶴に逢って聞きたく思っている。/しかし鶴が『妾(わたし)は一度も貴君のことを思ったことはありません』と自ら云おうとも、自分はそれは口だけだ。少なくも鶴の意識だけだと思うに違いない。」(新潮文庫版『お目出たき人』109頁)
恐るべし。ゾンビのような妄想である。この主人公ははたして実篤その人なのであろうか。それとも、実篤が造形したキャラクターなのであろうか。世間では前者と考えられているようで、私もそのつもりで読み始めたのだが、しだいに、やはりそれはないんじゃないか、いくらなんでも実在の人間とは思えない、仮に実篤本人がこういう人物であったとしても、ここまで自分の異常さ(楽天的というよりも病的なまでのナルシシズムである)を世間に晒すものだろうか、と考えるようになった。でも、それを平然とやってしまうところが、ある意味での天才なのかもしれない。それにしても「鶴」が登場するたびに「鶴田真由」を連想していた私も尋常ではないかもしれない。
お昼から大学へ。電車の中で武者小路実篤「お目出たき人」を読む。妄想的な恋愛小説である。恋愛には多かれ少なかれ妄想的な要素がある。しかし、これほどの妄想にはめったにお目にかかれまい。剥製にして博物館に保管しておきたいような妄想だ。主人公の26歳の青年は、近所に住む「鶴」という女学生のことが好きになり、一言の言葉も交わさないまま、彼女も自分のことを好きに違いないと確信し(ここがすごいところなのだ)、人を介して彼女に求婚し、そして断られる。しかし、その後、何度も求婚し、その度に断られ、しまいに彼女は主人公の知らない男と結婚してしまう。さすがに主人公は打ちひしがれ、涙する。ところが、最後の最後で彼はこう思うのだ。
「其後暫らくして自分は何時のまにか鶴は自分を恋していてくれたのだが父や母や兄のすすめで進まずながら人妻になったのだと理由もなしに思うようになった。そうしてそれから一月もたった。今は鶴をあわれむような気分になった。そうして鶴の運命が気になりだした。/自分はこの感じがあやまっているか、いないかを鶴に逢って聞きたく思っている。/しかし鶴が『妾(わたし)は一度も貴君のことを思ったことはありません』と自ら云おうとも、自分はそれは口だけだ。少なくも鶴の意識だけだと思うに違いない。」(新潮文庫版『お目出たき人』109頁)
恐るべし。ゾンビのような妄想である。この主人公ははたして実篤その人なのであろうか。それとも、実篤が造形したキャラクターなのであろうか。世間では前者と考えられているようで、私もそのつもりで読み始めたのだが、しだいに、やはりそれはないんじゃないか、いくらなんでも実在の人間とは思えない、仮に実篤本人がこういう人物であったとしても、ここまで自分の異常さ(楽天的というよりも病的なまでのナルシシズムである)を世間に晒すものだろうか、と考えるようになった。でも、それを平然とやってしまうところが、ある意味での天才なのかもしれない。それにしても「鶴」が登場するたびに「鶴田真由」を連想していた私も尋常ではないかもしれない。