よく晴れた夏日だった。東京駅の丸の内北口前の横断歩道。信号が青に変るのを待つ人たちは、陽射しを避けて、建物で日陰になっている場所に留まっていた。そして信号が青に変ると、少しばかり気合を入れて、オフィス街へと歩き出すのであった。
3限の授業の最初に、担当の大藪先生から少し時間をいただいて、試験の話をする。ざわついていた教室がスーッと静かになる。1年生にとっては入学して初めて経験する試験とレポートの日々がもうそこまで来ている。怒涛のごとく押し寄せる試験とレポートをひとつひとつ乗り越えて、最後の波濤の向うに、光り輝くナ○○○ミを迎えてほしい。
イワン・アイヴァゾフスキー「第九の波濤」(部分)
昼食は大学に来るときに蒲田駅のコンコースの売店で購入した「万世かつツサンド」と野菜ジュース。3時から研究室で学生3人と面談。S先生の基礎演習の学生たちで、私の教材論文をプレゼンテーションで取り上げるので、質問に来たのである。木曜日にはまた別のクラスの学生たちが昼休に来ることになっている。私の教材論文の利用度は全体(約100本)の10番目くらいと聞いているが、トップ3の先生方はけっこう大変なんじゃないか。
面談を終えて、「シャノアール」に息抜きに行く。久しぶりにクリームソーダを注文し、十川信介『日本近代文学案内』(岩波文庫別冊)を読む。(1)「立身出世」物語―「故郷」と都会の往還、(2)近代文学のなかの別世界―他界と異界の話、(3)移動の時代―「交通」のはなし、の3部構成。いわゆる文学史とは違う切り口の、どちらかというと社会学的な、面白い本である。窓際に近い席だったせいか、冷房はそれほど強くなく、私には快適だった。
今日は本を2冊頂戴した。
作道信介編『近代化のフィールドワーク』(東信堂)
小沼純一『発端は、中森明菜』(実務教育出版)
『近代化のフィールドワーク』は弘前大学人文学部の研究者グループの共著(「21世紀教育」という授業のテキスト)で、著者の一人である高瀬雅弘君が送ってくれたものである(彼だけは教育学部の所属である)。「著者紹介」の頁には著者たちの写真が掲載されていて、日頃、彼のブログにイニシャルで登場する先生方のお顔を拝見することができた。なるほど、なるほど。ところで例のプロジェクトの進捗状況はどうなっているのだろうか。
『発端は、中森明菜』とは変ったタイトルである。「発端は」の後の「、」に著者の思い入れが表れている。そして「ひとつを選びつづける生き方」というサブタイトルが付いている。これだけでは、無論、なんのことかわからない。幸いなことに本には帯というものがあり、そこにはこう書かれている。「東大ゼミでも話した中森明菜をめぐるあれこれ。」なるほどね、って「あれこれ」って何? でも、帯の反対側の面にはこう書いてあった。「もともとは、まわりにある慣習をただ無反省に遵守するのではなく、自らの思うように生きてきたというただそれだけ―のことが、不幸を招きよせるとしたら、どうなのでしょう。/正直に生きることの困難さ。ある程度は突っぱることで男性との、恋人との、他者との関係をつくってきた。それを「歌」をとおして世間にアピールしてきた。それが中森明菜の姿勢だったのです。」う~む、なんとなくわかってきたぞ。つまり「中森明菜とその時代(1980年代)」ということでしょうか。小沼先生は私より5つ年下だから、1980年代というのはほぼ彼の20歳代と重なっている。「一九八〇年代、私は自分がどうしたいのか、ぼんやりと思い悩むばかりでした」と「はしがき」に書いてある。そうでしょう、そうでしょう。
大学からの帰り、丸善丸の内店に寄って、関川夏央『家族の昭和』(新潮社)と愛用のゲルインクペンの替芯を購入。外に出ると、夕方の空になっていた。
3限の授業の最初に、担当の大藪先生から少し時間をいただいて、試験の話をする。ざわついていた教室がスーッと静かになる。1年生にとっては入学して初めて経験する試験とレポートの日々がもうそこまで来ている。怒涛のごとく押し寄せる試験とレポートをひとつひとつ乗り越えて、最後の波濤の向うに、光り輝くナ○○○ミを迎えてほしい。
イワン・アイヴァゾフスキー「第九の波濤」(部分)
昼食は大学に来るときに蒲田駅のコンコースの売店で購入した「万世かつツサンド」と野菜ジュース。3時から研究室で学生3人と面談。S先生の基礎演習の学生たちで、私の教材論文をプレゼンテーションで取り上げるので、質問に来たのである。木曜日にはまた別のクラスの学生たちが昼休に来ることになっている。私の教材論文の利用度は全体(約100本)の10番目くらいと聞いているが、トップ3の先生方はけっこう大変なんじゃないか。
面談を終えて、「シャノアール」に息抜きに行く。久しぶりにクリームソーダを注文し、十川信介『日本近代文学案内』(岩波文庫別冊)を読む。(1)「立身出世」物語―「故郷」と都会の往還、(2)近代文学のなかの別世界―他界と異界の話、(3)移動の時代―「交通」のはなし、の3部構成。いわゆる文学史とは違う切り口の、どちらかというと社会学的な、面白い本である。窓際に近い席だったせいか、冷房はそれほど強くなく、私には快適だった。
今日は本を2冊頂戴した。
作道信介編『近代化のフィールドワーク』(東信堂)
小沼純一『発端は、中森明菜』(実務教育出版)
『近代化のフィールドワーク』は弘前大学人文学部の研究者グループの共著(「21世紀教育」という授業のテキスト)で、著者の一人である高瀬雅弘君が送ってくれたものである(彼だけは教育学部の所属である)。「著者紹介」の頁には著者たちの写真が掲載されていて、日頃、彼のブログにイニシャルで登場する先生方のお顔を拝見することができた。なるほど、なるほど。ところで例のプロジェクトの進捗状況はどうなっているのだろうか。
『発端は、中森明菜』とは変ったタイトルである。「発端は」の後の「、」に著者の思い入れが表れている。そして「ひとつを選びつづける生き方」というサブタイトルが付いている。これだけでは、無論、なんのことかわからない。幸いなことに本には帯というものがあり、そこにはこう書かれている。「東大ゼミでも話した中森明菜をめぐるあれこれ。」なるほどね、って「あれこれ」って何? でも、帯の反対側の面にはこう書いてあった。「もともとは、まわりにある慣習をただ無反省に遵守するのではなく、自らの思うように生きてきたというただそれだけ―のことが、不幸を招きよせるとしたら、どうなのでしょう。/正直に生きることの困難さ。ある程度は突っぱることで男性との、恋人との、他者との関係をつくってきた。それを「歌」をとおして世間にアピールしてきた。それが中森明菜の姿勢だったのです。」う~む、なんとなくわかってきたぞ。つまり「中森明菜とその時代(1980年代)」ということでしょうか。小沼先生は私より5つ年下だから、1980年代というのはほぼ彼の20歳代と重なっている。「一九八〇年代、私は自分がどうしたいのか、ぼんやりと思い悩むばかりでした」と「はしがき」に書いてある。そうでしょう、そうでしょう。
大学からの帰り、丸善丸の内店に寄って、関川夏央『家族の昭和』(新潮社)と愛用のゲルインクペンの替芯を購入。外に出ると、夕方の空になっていた。