フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月26日(木) 晴れのち曇り

2008-06-27 03:12:20 | Weblog
  昼休みに学生との面談の約束があり、いつもより1時間ほど早めに家を出る。駅に向かう途中でケータイを忘れてきたことに気がついたが、「まぁ、いいや」とそのまま電車に乗った。平均すると、一日に受信するメールは1通、送信するメールも1通で、電話についてもほぼ同様である。以前は、カメラとして活用していたが、最近はデジカメを持ち歩いているので、利用頻度は激減した。もしかしたらなくてもいいなじゃないかと思わないでもないが、緊急のときの連絡用という否定しがたい理由のためにこれからも持ち歩くことになるのであろう。こんな状況なのでいつまで経っても親指一本での日本語入力が上達しない。できるだけメールは一行で済ませるようにしている。「家内安全火の用心。おせん泣かすな馬肥やせ」が理想である。ほとんど電報のようなメールであり、五行以上に渡りそうな内容の場合は、迷わず電話をする。
  3限の授業(大学院の演習)の後、研究室で卒論の個人指導。卒論指導は週に一度、演習形式で実施しているのだが、必要に応じて個人指導も併用している。とくに4月申請の二文生の場合は、仮指導という段階をスキップしているので、どこかでそれを穴埋めするための個人指導が必要になってくる。今日はEさんと面談をしたのだが、卒論の話からは外れた雑談の中で、中上健次の小説の話になった。文学部の学生は文学好きというセオリーは、すっかり過去のものになっていて、「最近読んだ本の話」「好きな作家の話」というのを気軽に話題に出来なくなっている(「すみません。本はあまり読んでなくて・・・」とバツが悪そうに答える学生が多いので)。中上健次の小説が好きという学生と話をしたのは2年ぶりくらいであろうか。文学部の学生はこうでなくちゃいけない。
  5限の時間、腹ペコであることに気づき(昼飯を食べ損なっていた)、「シャノアール」に行って玉子トーストと珈琲を注文する。そこで30分ほど、明日の「日常生活の社会学」の講義ノート(プロット)の作成。これを元にして、夜、自宅でパワーポイントのスライドを作成するのである。
  帰りがけに、あゆみブッスクで小野寺健『イギリス的人生』(ちくま文庫)を購入し、電車の中で読む。小野寺はイギリス文学の翻訳でよく知られている人だが、そんな彼も、ジョージ・エリオットの小説は何度読んでみようとしても、重苦しく、うんざりした気持ちになって、挫折をしてしまうという経験を重ねてきた。そして、エリオットの小説に楽しみを見つけられないうちは、イギリス文学がわかったとはいえないのではないかという不安を覚えていたそうである。それが60代になって、『フロス河畔の水車場』という小説のある箇所を読んで、エリオットの魅力がわかったと感じたそうだ。その箇所とは、トムとマギー(作家の分身)の兄妹が河畔で遊んでいるところの描写である。

  「マギーは魚がぽちゃんと跳ねたり泳いだりしているかすかな音を聞きながら、いつまでも自然の囁きと、夢のような静けさにうっとりと浸っていた。まるで柳や蘆や河の流れまが、しあわせに囁いているようだった・・・。/河沿いに歩いていっては腰を下ろす兄と妹は、自分たちの人生が大きく変わることがあろうなどとは考えてもいなかった。二人はただ大きくなるだけで、遠くの学校へ行くこともなく、いつまでも休日のような日がつづくのだ。二人はいつまでも一緒で、おたがいに大好きで、水車はいつまでもがたんごとんと回りつづけている―二人がその陰でままごとをした大きな栗の木。その土手もわが家のような気がする懐かしいリップル河。」

  「いつまでも」という副詞が何度もくりかえし使われている。この何もかもが「いつまでも」変らずにいるであろうという認識、「いつまでも」変らずにいてほしいという願望、それこそが、硬い言葉で言ってしまえば、「経験的保守主義」というものである。

  「私は、自分の好きなイギリス小説は例外なくこの信念にもとづいたものらしいことにあらためて思いあたり、ジョージ・エリオットに容易になじめなかったのは、この秘密がわからないままに、ただ感情的抑制のきいた知的な文体の重みと、作品としての長さに、もっぱら辟易していたのだということにやっと目覚めたのである。」(21頁)