フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月22日(日) 雨

2008-06-23 01:25:13 | Weblog
  久しぶりの雨の一日。小雨ではない。窓の外の雨の音がちゃんと聞こえる。梅雨らしい雨の一日だった。
  朝食(ベーコン&エッグ、トースト、紅茶)のあと、居間のTVで将棋の対局(NHK杯)を観戦していたら、遅く起きてきた娘も朝食をとりながらそれを観ていた。勝負は北浜七段の勝利に終わり、感想戦が始まった。敗れた石田九段があれこれ喋り、北浜七段は恐縮したように言葉少なである。娘にはそれが不思議な光景にみえたらしいが、感想戦とはたいていこのようなものである。喋ることで(これが敗着だった、ここでこうやっていればよかった、という反省が主である)、敗者は悔しさを発散し、そうですね、そう指されていたら私の方が悪かったと思います、と勝者は自分の勝利がたまたまのものであったこと(将棋の用語でこれを「指運」という)を認める。これ、一種の礼儀作法である。勝ったのは自分が強いからで、負けたのはあなたが弱いからである、もしあの局面であなたがこう指したとしたら、自分はこう指すつもりだった、それでやっぱり私の勝ちである、というような対応は中途半端に強い棋士のすることで、本当に強い棋士は将棋に対して謙虚である。数日前の朝日新聞の夕刊のコラム(素粒子)が鳩山法相のことを「死神」呼ばわりして論議を呼んでいるが、その同じコラムの中で羽生名人を「将棋の神様」と書いていて、私はこちらの方が驚いた。棋士も観戦記者も将棋ファンも羽生名人を「将棋の神様」だなんて思っていない。神様はミスをしない。しかし人間同士の将棋はミス(最善手以外はすべてミスであるとすれば)ばかりで、それは羽生名人も同様である。彼の強さは最後に相手のミスを誘う念力のようなもの(「羽生マジック」と呼ばれている)をもっているいところにある。将棋は最後にミスをした方が負けるのである。羽生名人のことを「将棋の神様」と呼んだあのコラムニストは将棋のことが全然わかっていない。しかし世間は「死神」の方ばかり問題にしている。日本将棋連盟も朝日新聞に遠慮して黙っている。ここは一つ、羽生名人には名人就位式の挨拶のときに「私は神様ではありません。名人です」と人間宣言をしてもらいたい。

                 

  午後、雨の中を散歩に出る。空気がひんやりしていて気持ちがいい。「テラス・ドルチェ」で昼食をとる。焼肉ピラフと珈琲のセットを注文。焼肉ピラフは豚肉の生姜焼きの肉汁でバターライスを炒めたものと思ってもらえればよい。子供の頃、あの肉汁をご飯に掛けて食べるのが大好きだった。焼肉でご飯を二杯食べ、肉汁を掛けてもう一杯食べていた。焼肉そのものよりも肉汁の方が好きだったかもしれない。大人になると、とくに食堂では、肉汁をご飯に掛けて食べるというマネはしにくい。せいぜい付け合せのキャベツを肉汁をドレッシング代わりにして食べるくらいである。この焼肉ピラフはピラフ全体にまんべんなく肉汁がしみこんでいる。私が求めていたのはこれだったのだ、という思いがこみ上げてくる。至福といってもいい。「肉汁の神様」と呼んでもいい。

         

  食後の珈琲を飲みながら、石川啄木の「二筋の血」という随筆を読む。大正3年に雑誌『生活と芸術』に掲載された啄木の遺稿である。啄木の小学生時代の「忘れえぬ人」のことを書いたもので、深く心にしみる文章である。しかし、肉汁の話を書いた後でこの作品について語るのははばかられるところがある。この作品のことは、日を改めて、居ずまいを正して語りたいと思う。