8時半、起床。卵焼き、トースト、牛乳の朝食。梅雨の手前のような蒸し暑さを感じる。昼前に自宅を出て、大学へ。
3限は「現代人間論系総合講座1」。安藤先生担当の3回シリーズの初回にコーディネーターとして参加。去年の講義をベースにしつつ、TVドラマ『ありふれた奇跡』の話(女装趣味のある両家の父親)を盛り込むなど、細かなバージョンアップがなされていた。ご本人は予定していた進度よりも大分手前で終ったことを気にされていたが、むしろ普段が盛り込みすぎのことろがあるから、明治40年代の3篇の小説、『三四郎』『蒲団』『破壊』にしぼってじっくり論じていただいて、学生はついていきやすかったのではなかと思う。今回も安藤先生は「三四郎は私だ」と言って、「竹中時雄は私だ」とは言わなかったが、自分の元を去った女弟子の使っていた蒲団にももぐりこんで泣くという時雄の気持を「わからでもない」と言ったのは前進である。「わからないでもない」から「竹中時雄は私だ」まではあと一歩である。とにかく告白小説を論じて不正直はいけませんからね。冗談はさておき、授業中に安藤先生が『三四郎』を読んことのある人は手をあげてと言ったとき、誰も手をあげなかったのには、半分予想してはいたが、事実として直面してみると感慨深いものがあった。「共通体験としての読書」というものの内容がどんどん乏しくなっている。これは「読書」に限らない。より広く「文化」や「教養」に置き換えても同じことだ。それが共通体験ではなくなるということは、コミュニケーションの資源として活用できないということだ。個人化する社会におけるコミュニケーションの困難の原因の1つは、こうした世代間(および世代内)における関心の多様化=共通部分の希薄化ということにある。ただし文化の平面における共有部分が乏しくても、コミュニケーションが活発になる可能性はあり、それは社会問題の共通認識ということであるが、昨今の社会状況はむしろこちらの方に期待がもてるようなものであるかもしれない。
「メーヤウ」で遅い昼食をとる。インド風ポークカリーとラッシー、ご飯は普通盛りで。これから暑くなってくるとポークカリーを注文する回数が増えるに違いない。食後の珈琲は「シャノアール」で。禁煙席が埋まっていたので、窓際のシングル席に座ってみる。初めて坐ったが、座面は高いし(足がフロアーに届かない)、西日は入るし(途中からカーテンが下ろされた)、テーブルは狭いしで(本は開けるがノートを広げるだけのスペースはない)、長居には不向きな場所である。
5限は卒論指導。報告予定者の一人が風邪でダウン。H君一人の報告だったが、授業時間は半分ということはなく、フルに使って(H君には大変だったかもしれないが)6時までやった。
夜、『踊るさんま御殿』を見ているときに、娘が「最近は、○○VS○○という構成が多くなった」と言ったが、確かにそうで、今日も出身階層の高低で出演者が2つのカテゴリーに分けられてトークが展開されていた。わかりやすいが、話の広がりが限定されて、トークが単調になるきらいがあるように思う。出演者(芸人)のカテゴリーを設定してトークをするというのは雨上がり決死隊がMCをしている『アメトーク』が本家的存在だが、そちらの方も私にはマンネリ感が感じられる。この手のトークの面白さは発言のオタク的薀蓄の度合いにかかっているが、最近はそれが浅薄な感じ、にわか仕込の感が拭えないものがふえている。『アメトーク』のことはいいとして、『踊るさんま御殿』については、出演者のカテゴリー分けは明石家さんまのMCとしての能力を生かしていないし、むしろその能力の衰えをカヴァーするためのものなのではないかと心配にさえなる。ランダムに編成されたように見える出演者に対して、自在のパス回しをして、番組中に1つのチームに作り上げてしまうというのが明石家さんまのMCとしての最大の魅力なのであるから。
3限は「現代人間論系総合講座1」。安藤先生担当の3回シリーズの初回にコーディネーターとして参加。去年の講義をベースにしつつ、TVドラマ『ありふれた奇跡』の話(女装趣味のある両家の父親)を盛り込むなど、細かなバージョンアップがなされていた。ご本人は予定していた進度よりも大分手前で終ったことを気にされていたが、むしろ普段が盛り込みすぎのことろがあるから、明治40年代の3篇の小説、『三四郎』『蒲団』『破壊』にしぼってじっくり論じていただいて、学生はついていきやすかったのではなかと思う。今回も安藤先生は「三四郎は私だ」と言って、「竹中時雄は私だ」とは言わなかったが、自分の元を去った女弟子の使っていた蒲団にももぐりこんで泣くという時雄の気持を「わからでもない」と言ったのは前進である。「わからないでもない」から「竹中時雄は私だ」まではあと一歩である。とにかく告白小説を論じて不正直はいけませんからね。冗談はさておき、授業中に安藤先生が『三四郎』を読んことのある人は手をあげてと言ったとき、誰も手をあげなかったのには、半分予想してはいたが、事実として直面してみると感慨深いものがあった。「共通体験としての読書」というものの内容がどんどん乏しくなっている。これは「読書」に限らない。より広く「文化」や「教養」に置き換えても同じことだ。それが共通体験ではなくなるということは、コミュニケーションの資源として活用できないということだ。個人化する社会におけるコミュニケーションの困難の原因の1つは、こうした世代間(および世代内)における関心の多様化=共通部分の希薄化ということにある。ただし文化の平面における共有部分が乏しくても、コミュニケーションが活発になる可能性はあり、それは社会問題の共通認識ということであるが、昨今の社会状況はむしろこちらの方に期待がもてるようなものであるかもしれない。
「メーヤウ」で遅い昼食をとる。インド風ポークカリーとラッシー、ご飯は普通盛りで。これから暑くなってくるとポークカリーを注文する回数が増えるに違いない。食後の珈琲は「シャノアール」で。禁煙席が埋まっていたので、窓際のシングル席に座ってみる。初めて坐ったが、座面は高いし(足がフロアーに届かない)、西日は入るし(途中からカーテンが下ろされた)、テーブルは狭いしで(本は開けるがノートを広げるだけのスペースはない)、長居には不向きな場所である。
5限は卒論指導。報告予定者の一人が風邪でダウン。H君一人の報告だったが、授業時間は半分ということはなく、フルに使って(H君には大変だったかもしれないが)6時までやった。
夜、『踊るさんま御殿』を見ているときに、娘が「最近は、○○VS○○という構成が多くなった」と言ったが、確かにそうで、今日も出身階層の高低で出演者が2つのカテゴリーに分けられてトークが展開されていた。わかりやすいが、話の広がりが限定されて、トークが単調になるきらいがあるように思う。出演者(芸人)のカテゴリーを設定してトークをするというのは雨上がり決死隊がMCをしている『アメトーク』が本家的存在だが、そちらの方も私にはマンネリ感が感じられる。この手のトークの面白さは発言のオタク的薀蓄の度合いにかかっているが、最近はそれが浅薄な感じ、にわか仕込の感が拭えないものがふえている。『アメトーク』のことはいいとして、『踊るさんま御殿』については、出演者のカテゴリー分けは明石家さんまのMCとしての能力を生かしていないし、むしろその能力の衰えをカヴァーするためのものなのではないかと心配にさえなる。ランダムに編成されたように見える出演者に対して、自在のパス回しをして、番組中に1つのチームに作り上げてしまうというのが明石家さんまのMCとしての最大の魅力なのであるから。