深夜、『1Q84』を読み終える。
午前中は自宅で授業の準備。昼から大学へ出て、3限は「現代人間論系総合講座1」。長田先生の3回シリーズの初回を拝聴する。4限は研究室でゼミのグループ報告の事前相談。その後、F先生と来年度の授業の件で打ち合わをし、明後日の専門演習の配布資料のコピーをして、6時に大学を出た。地下鉄の座席に腰を下ろして、『1Q84』の下巻の第13章を読み始め、帰宅して、風呂と夕食、一服してから本格的な読書の体勢に入って、最後まで読んだ。
読書は個人的な行為だが、発売直後のベストセラーについては、いま、あちこちでそれを読んでいる人がいるわけで、擬似共同体的な行為といえる。その擬似共同体の空には二つの月が浮かんでいる。フィールドノートの読者の中には、私より先に読み終えた人もたくさんいることと思うが(発売日からもう4日が経過した)、いま佳境に入っている人、これから読み始める人も少なくないと思うので、ストーリー自体に言及する(ネタバレ)感想を書くことは控えよう。
村上春樹のこれまでの長篇小説がそうであったように、『1Q84』も多分にミステリー仕立ての小説で、読者は謎解きの誘惑に駆られながら頁をめくることになるが、普通の(正統派の)ミステリー小説のように結末で謎がすべて解明されるわけではない。大小の謎は謎の部分を残したまま暗闇の中に置き去りにされる。それは思わせぶりというのとは違う。ミステリー作家が読者に謎を解明してみせることができるのは、小説の世界が作家の手のひらの上にあるからだ。世界は作家が構築したものであり、その意味で作家は神であり、世界に関して知らないことは何もない。だから世界の謎を解明(というよりも説明)してみせることができる。しかし村上春樹と『1Q84』の世界の関係はそうではない。作家は世界を創造しながら、同時にその世界に取り込まれている。世界は作家の完全なコントロール下にはない。これはミステリー小説ではない、純文学と慣習的に呼ばれてきた小説ではよくあることだ。そこでは小説の主人公は「問い」に対する「答え」を探して行動するが、作家はあらかじめ「答え」を知っているわけではなく、主人公と一緒に「答え」を探求しながら小説を書いていく。それがミステリー小説との決定的な違いだ。
ミステリー仕立て(しかしミステリー小説ではない)ということと並んで、『1Q84』のもう1つの構成上の特徴は、ラブストーリー仕立てということである。青豆と天吾、互いを強く求め合う二人の男女ははたして出会うことができるのか、結ばれることができるのか、読書のもう一つの関心はここにある。ネタバレ的なことは書かないと宣言した手前、苦しいところだが、結末はいかにも村上春樹的であるとだけ書いておこう。それは一般的な感覚でいえばハッピーエンドではない。では悲劇的結末なのかいうと決してそうではない。魂の救済という観点から幸福を定義するならば、『1Q84』の結末は申し分なくハッピーエンドである。しかし、幸福の定義は多義的なので、『1Q84』の結末を崇高な悲劇とみる見方も成り立つだろう。
「タカシマ塾」=「ヤマギシ会」、「あけぼの」=「連合赤軍」、「さきがけ」=「オウム真理教」、「証人会」=「エホバの証人」と現実の世界との呼応関係のはっきりした小説である点も、『1Q84』の大きな特徴である。フィクションの中にノンフィクションが侵入してきているわけだが、これを虚構の時代を代表する作家である村上春樹の現実への回帰として見るのは早計だろう。なぜなら「事実は小説よりも奇なり」ではなく、やはり「小説は事実よりも奇なり」だからである。『1Q84』は「奇譚」である。村上春樹には『東京奇譚集』という短篇小説集があるが、『1Q84』は長篇の「東京奇譚」あるいは「戦後日本奇譚」である。

「月は四分の三の大きさだった。二十年前の月と同じだ、と天吾は思った。」(393頁)
午前中は自宅で授業の準備。昼から大学へ出て、3限は「現代人間論系総合講座1」。長田先生の3回シリーズの初回を拝聴する。4限は研究室でゼミのグループ報告の事前相談。その後、F先生と来年度の授業の件で打ち合わをし、明後日の専門演習の配布資料のコピーをして、6時に大学を出た。地下鉄の座席に腰を下ろして、『1Q84』の下巻の第13章を読み始め、帰宅して、風呂と夕食、一服してから本格的な読書の体勢に入って、最後まで読んだ。
読書は個人的な行為だが、発売直後のベストセラーについては、いま、あちこちでそれを読んでいる人がいるわけで、擬似共同体的な行為といえる。その擬似共同体の空には二つの月が浮かんでいる。フィールドノートの読者の中には、私より先に読み終えた人もたくさんいることと思うが(発売日からもう4日が経過した)、いま佳境に入っている人、これから読み始める人も少なくないと思うので、ストーリー自体に言及する(ネタバレ)感想を書くことは控えよう。
村上春樹のこれまでの長篇小説がそうであったように、『1Q84』も多分にミステリー仕立ての小説で、読者は謎解きの誘惑に駆られながら頁をめくることになるが、普通の(正統派の)ミステリー小説のように結末で謎がすべて解明されるわけではない。大小の謎は謎の部分を残したまま暗闇の中に置き去りにされる。それは思わせぶりというのとは違う。ミステリー作家が読者に謎を解明してみせることができるのは、小説の世界が作家の手のひらの上にあるからだ。世界は作家が構築したものであり、その意味で作家は神であり、世界に関して知らないことは何もない。だから世界の謎を解明(というよりも説明)してみせることができる。しかし村上春樹と『1Q84』の世界の関係はそうではない。作家は世界を創造しながら、同時にその世界に取り込まれている。世界は作家の完全なコントロール下にはない。これはミステリー小説ではない、純文学と慣習的に呼ばれてきた小説ではよくあることだ。そこでは小説の主人公は「問い」に対する「答え」を探して行動するが、作家はあらかじめ「答え」を知っているわけではなく、主人公と一緒に「答え」を探求しながら小説を書いていく。それがミステリー小説との決定的な違いだ。
ミステリー仕立て(しかしミステリー小説ではない)ということと並んで、『1Q84』のもう1つの構成上の特徴は、ラブストーリー仕立てということである。青豆と天吾、互いを強く求め合う二人の男女ははたして出会うことができるのか、結ばれることができるのか、読書のもう一つの関心はここにある。ネタバレ的なことは書かないと宣言した手前、苦しいところだが、結末はいかにも村上春樹的であるとだけ書いておこう。それは一般的な感覚でいえばハッピーエンドではない。では悲劇的結末なのかいうと決してそうではない。魂の救済という観点から幸福を定義するならば、『1Q84』の結末は申し分なくハッピーエンドである。しかし、幸福の定義は多義的なので、『1Q84』の結末を崇高な悲劇とみる見方も成り立つだろう。
「タカシマ塾」=「ヤマギシ会」、「あけぼの」=「連合赤軍」、「さきがけ」=「オウム真理教」、「証人会」=「エホバの証人」と現実の世界との呼応関係のはっきりした小説である点も、『1Q84』の大きな特徴である。フィクションの中にノンフィクションが侵入してきているわけだが、これを虚構の時代を代表する作家である村上春樹の現実への回帰として見るのは早計だろう。なぜなら「事実は小説よりも奇なり」ではなく、やはり「小説は事実よりも奇なり」だからである。『1Q84』は「奇譚」である。村上春樹には『東京奇譚集』という短篇小説集があるが、『1Q84』は長篇の「東京奇譚」あるいは「戦後日本奇譚」である。

「月は四分の三の大きさだった。二十年前の月と同じだ、と天吾は思った。」(393頁)