9時、起床。昨日ご近所のIさんからいただいた上等の卵で卵かけご飯の朝食。これと若布の味噌汁だけで十分満足。午後、久しぶりでジムへ。1時間のウォーキング&ランニングで鰻丼一杯分のカロリーを消費する。走り終えて、まず冷水機の水を飲み、顔と首筋にも冷水をかけ、ベンチで呼吸が整うまで休む。それから熱いシャワーを浴び、着替えをすませてから、ロビーで自販機のグレープフーツジュースを飲む。練習後のこのパターンは毎回同じ。ほどよい疲れとリフレッシュした気分で蒲田陸橋を渡る。
今日の蒲田の空
「シャノアール」でアイスココアを飲みながら、土井隆義『キャラ化する/される子どもたち 排除型社会における新たな人間像』の続きを読む。
「今日の若い世代は、アイデンディティという言葉で表されるような一貫したものとしてではなく、キャラという言葉で示されるような断片的な要素を寄せ集めたものとして自らの人格をイメージするようになっています。アイデンティティは、いくども揺らぎを繰り返しながら、社会生活のなかで徐々に構築されていくものですが、キャラは、対人関係に応じて意図的に演じられる外キャラにしても、生まれもった人格特性を示す内キャラにしても、あらかじめ出来上がっている固定的なものです。したがって、その輪郭が揺らぐことはありません。状況に応じて切り替えられはしても、それ自体は変化しないソリッドなものです。」(23-24頁)
「人間関係における外キャラの呈示は、それぞれの価値観を根底から異にしてしまった人間どうしが、予想もつかないほど多様に変化し続ける対人関係のなかで、しかし互いの関係をけっして決裂させることなく、コミュニケーションを成立させていくための技法の一つといえるのではないでしょうか。深部まで互いに分かり合って等しい地平に立つことを目指すのではなく、むしろ互いの違いを的確に伝え合ってうまく共生することを目指す技法の一つといえるのではないでしょうか。彼らは、複雑化した人間関係の破綻を回避し、そこに明瞭性と安定性を与えるために、相互に協力しあってキャラを演じあっているのです。複雑さを縮減することで、人間関係を良くしようとしているのです。
したがって外キャラを演じることは、けっして自己欺瞞ではありませんし、相手を騙すことでもありません。たとえば、ケータイの着メロの選択や、あるいはカラオケの選曲の仕方で、その人のキャラが決まってしまうこともあるように、キャラとはきわめて単純化されたものに違いはありません。しかし、ある側面だけを切り取って強調した自分らしさの表現であり、その意味では個性の一部なのです。うそ偽りの仮面や、強制された役割とは基本的に違うものです。」(26頁)
「今日の若い人が内キャラにこだわるのは、いかに生きるべきかを指し示す人生の羅針盤がこの社会のどこにも見当たらず、いわば存在論的な不安を抱えているからです。だから、どんな視点からも相対化されることのない不変不動の準拠点として、持ち前のキャラに依存することになるのです。内キャラが、多面的な要素から成り立つアイデンティティとは異なり、外キャラと同様に一面的で、輪郭もくっきりとして単純なのはこのような理由によるのでしょう。
対他的な場面において自己の印象操作の負荷を下げ、その潤滑油の役割を担っているが外キャラだとすれば、対自的な場面において自己の感情操作の負荷を下げ、その安定剤の役割を担っているのが内キャラです。どちらも、自己イメージの管理にともなう工夫の産物という点では違いがありません。このことは、特定の生き方を誰も強制されなくなったという点では、現在の日本はたしかにユートピアでしょうが、しかしそれゆえに、いったい相手が何者であるか根本的には分らないまま、不透明な相手とつねに向きあって生きなければならないという点では、そして、自分が何者であるかも分らないまま、不透明な自分とつねに向きあって生きなければならないという点では、同時にディストピアでもあることを示しています。」(33-34頁)
「キャラ」という概念を駆使した脱アイデンティティ論(近年の社会学の流行)であるが、「キャラ」を流動的で先行き不安定な現代の社会状況への一種の適応形態として解釈しながらも、「ディストピア」という言葉を使っているところからも明らかなように、それが好ましい人間像とは土井はみなしていない。外キャラが社会が用意した道具箱の中にあり、内キャラが生来のものであるとすれば、そこには人間の成長する余地がない。
今日の蒲田の空
「シャノアール」でアイスココアを飲みながら、土井隆義『キャラ化する/される子どもたち 排除型社会における新たな人間像』の続きを読む。
「今日の若い世代は、アイデンディティという言葉で表されるような一貫したものとしてではなく、キャラという言葉で示されるような断片的な要素を寄せ集めたものとして自らの人格をイメージするようになっています。アイデンティティは、いくども揺らぎを繰り返しながら、社会生活のなかで徐々に構築されていくものですが、キャラは、対人関係に応じて意図的に演じられる外キャラにしても、生まれもった人格特性を示す内キャラにしても、あらかじめ出来上がっている固定的なものです。したがって、その輪郭が揺らぐことはありません。状況に応じて切り替えられはしても、それ自体は変化しないソリッドなものです。」(23-24頁)
「人間関係における外キャラの呈示は、それぞれの価値観を根底から異にしてしまった人間どうしが、予想もつかないほど多様に変化し続ける対人関係のなかで、しかし互いの関係をけっして決裂させることなく、コミュニケーションを成立させていくための技法の一つといえるのではないでしょうか。深部まで互いに分かり合って等しい地平に立つことを目指すのではなく、むしろ互いの違いを的確に伝え合ってうまく共生することを目指す技法の一つといえるのではないでしょうか。彼らは、複雑化した人間関係の破綻を回避し、そこに明瞭性と安定性を与えるために、相互に協力しあってキャラを演じあっているのです。複雑さを縮減することで、人間関係を良くしようとしているのです。
したがって外キャラを演じることは、けっして自己欺瞞ではありませんし、相手を騙すことでもありません。たとえば、ケータイの着メロの選択や、あるいはカラオケの選曲の仕方で、その人のキャラが決まってしまうこともあるように、キャラとはきわめて単純化されたものに違いはありません。しかし、ある側面だけを切り取って強調した自分らしさの表現であり、その意味では個性の一部なのです。うそ偽りの仮面や、強制された役割とは基本的に違うものです。」(26頁)
「今日の若い人が内キャラにこだわるのは、いかに生きるべきかを指し示す人生の羅針盤がこの社会のどこにも見当たらず、いわば存在論的な不安を抱えているからです。だから、どんな視点からも相対化されることのない不変不動の準拠点として、持ち前のキャラに依存することになるのです。内キャラが、多面的な要素から成り立つアイデンティティとは異なり、外キャラと同様に一面的で、輪郭もくっきりとして単純なのはこのような理由によるのでしょう。
対他的な場面において自己の印象操作の負荷を下げ、その潤滑油の役割を担っているが外キャラだとすれば、対自的な場面において自己の感情操作の負荷を下げ、その安定剤の役割を担っているのが内キャラです。どちらも、自己イメージの管理にともなう工夫の産物という点では違いがありません。このことは、特定の生き方を誰も強制されなくなったという点では、現在の日本はたしかにユートピアでしょうが、しかしそれゆえに、いったい相手が何者であるか根本的には分らないまま、不透明な相手とつねに向きあって生きなければならないという点では、そして、自分が何者であるかも分らないまま、不透明な自分とつねに向きあって生きなければならないという点では、同時にディストピアでもあることを示しています。」(33-34頁)
「キャラ」という概念を駆使した脱アイデンティティ論(近年の社会学の流行)であるが、「キャラ」を流動的で先行き不安定な現代の社会状況への一種の適応形態として解釈しながらも、「ディストピア」という言葉を使っているところからも明らかなように、それが好ましい人間像とは土井はみなしていない。外キャラが社会が用意した道具箱の中にあり、内キャラが生来のものであるとすれば、そこには人間の成長する余地がない。