夕べは寝たのが午前4時近かったが、今朝は、7時に目が覚めてしまった。眠りが浅い。すぐには起きず、9時過ぎまで蒲団の中でウトウトする。朝食は夕食の残りのハヤシライス。
事務的な仕事をいつくか片付け、昼から大学へ。昼食はコンビニのおにぎり3個(梅干、昆布、たらこ)ですます。
3限は大学院の演習。報告者に予定されていた2人が、1人はレジュメのファイルの文字ばけのトラブル、もう一人は遅刻で、報告は次回まわしとなる。こういうときのために私が鞄の中に入れておいた補助教材(ライフストーリーインタビューの映像データ)を使ってディスカッションをする。
4限はドクターのAさんの研究指導。今日の報告内容を7月4日の早稲田社会学会大会で発表するというので、その1週間前にもう一度研究指導の機会を設定する。
5限は専門演習。グループ報告のレジュメ自体はとてもよく作られていたが、残念ながら発表の仕方が、私が常々それはしてはいけないと注意してきた、下を向いて原稿を読むという地味なものだった。発表というのはもっとパフォーティブでインタラクティブなものでないといけない。今回の報告で小池靖『セラピー文化の社会学』は読了。次回からは大澤真幸『不可能性の時代』を読むが、ゼミではすでにやっているグループ報告の事前相談をここでも実施することにする。
授業の後、TAのI君と「秀永」で食事(木耳肉定食と油淋鶏定食をシェアする)。I君がその一部を執筆した『戦後家族社会学文献選集 解説・解題』(日本図書センター)を頂戴する。これは単体の出版物ではなく、渡邊秀樹・池岡義孝編『戦後家族社会学文献選集』という全20巻の選集の別冊付録である。I君はその中で、磯村英一ほか編『離婚』(現代家族講座第5巻、1956年)の解題を担当している。地味な仕事だが、重要な仕事だ。
8時、帰宅。風呂を浴びてから、明日の授業の準備。講義「日常生活の社会学」の冒頭で行う「前回の復習」(名前がテーマだった)のところで、『1Q84』の「青豆」という姓の話をしよう。それから、高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』の中から、名前に関連した箇所を紹介しようと思う。
「昔々、人々はみんな名前をもっていた。そしてその名前は親によってつけられたものだと言われている。
そう本に書いてあった。
大昔は本当にそうだったのかもしれない。
(中略)
今はそんな名前をもっている人間はほとんどいない。政治家とか女優だけが今でもそんな名前をもっている。
それから人々は自分で自分の名前をつけるようになった。その頃のことなら私も少しはおぼえている。
みんな、自分の名前をつけるのに熱中していた。親かもらった名前をつけている連中は役所へ行って新しい名前と交換してもらった。
役所の前にはいつも長い列があった。
列にならびはじめた頃恋人ができると、役所が見える頃には赤ん坊が生まれて救急車で運ばれていくぐらいの長い列だった。
古い名前は役人たちが、役所の裏の川にどんどん放りこんだ。
何百万もの古い名前たちが川の表面をびっしり埋めて、しずしずと流れていった。
(中略)
人々が自分でつけた名前には変なものが多かった。
全く変なものが多かった。
名前をつけた本人とつけられた名前が喧嘩することはしょっちゅうで、お互いを殺しあうようになることさえあった。
私たちが「死」に慣れっこになったのはその頃からだ。
私たちはランドセルを背負って長ぐつをはき、名前と人間の双方がながした血がくるぶしまでたまった道路をじゃぶじゃぶ音を立てて小学校へ通っていた。
毎日、人間と「名前」の死体を満載した8トントラックがコンボイを組んで高速道路を走っていた。
小学校3年生の時、わたしの同級生は両親に内緒で自分の名前をつけた。
「止した方がいいよ」とわたしは言った。
「へいちゃらさ」とそいつは言った。
「ぼくの名前はすごくいいやつだよ」とそいつは言っていた。
そいつはそいつの「すごくいいやつ」に殺されてしまった。
それはもう滅茶苦茶に残酷な殺され方だった。
その死体がかつて人間だったとは誰にも信じられないぐらいだった。」(講談社文芸文庫版、13-16頁)
事務的な仕事をいつくか片付け、昼から大学へ。昼食はコンビニのおにぎり3個(梅干、昆布、たらこ)ですます。
3限は大学院の演習。報告者に予定されていた2人が、1人はレジュメのファイルの文字ばけのトラブル、もう一人は遅刻で、報告は次回まわしとなる。こういうときのために私が鞄の中に入れておいた補助教材(ライフストーリーインタビューの映像データ)を使ってディスカッションをする。
4限はドクターのAさんの研究指導。今日の報告内容を7月4日の早稲田社会学会大会で発表するというので、その1週間前にもう一度研究指導の機会を設定する。
5限は専門演習。グループ報告のレジュメ自体はとてもよく作られていたが、残念ながら発表の仕方が、私が常々それはしてはいけないと注意してきた、下を向いて原稿を読むという地味なものだった。発表というのはもっとパフォーティブでインタラクティブなものでないといけない。今回の報告で小池靖『セラピー文化の社会学』は読了。次回からは大澤真幸『不可能性の時代』を読むが、ゼミではすでにやっているグループ報告の事前相談をここでも実施することにする。
授業の後、TAのI君と「秀永」で食事(木耳肉定食と油淋鶏定食をシェアする)。I君がその一部を執筆した『戦後家族社会学文献選集 解説・解題』(日本図書センター)を頂戴する。これは単体の出版物ではなく、渡邊秀樹・池岡義孝編『戦後家族社会学文献選集』という全20巻の選集の別冊付録である。I君はその中で、磯村英一ほか編『離婚』(現代家族講座第5巻、1956年)の解題を担当している。地味な仕事だが、重要な仕事だ。
8時、帰宅。風呂を浴びてから、明日の授業の準備。講義「日常生活の社会学」の冒頭で行う「前回の復習」(名前がテーマだった)のところで、『1Q84』の「青豆」という姓の話をしよう。それから、高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』の中から、名前に関連した箇所を紹介しようと思う。
「昔々、人々はみんな名前をもっていた。そしてその名前は親によってつけられたものだと言われている。
そう本に書いてあった。
大昔は本当にそうだったのかもしれない。
(中略)
今はそんな名前をもっている人間はほとんどいない。政治家とか女優だけが今でもそんな名前をもっている。
それから人々は自分で自分の名前をつけるようになった。その頃のことなら私も少しはおぼえている。
みんな、自分の名前をつけるのに熱中していた。親かもらった名前をつけている連中は役所へ行って新しい名前と交換してもらった。
役所の前にはいつも長い列があった。
列にならびはじめた頃恋人ができると、役所が見える頃には赤ん坊が生まれて救急車で運ばれていくぐらいの長い列だった。
古い名前は役人たちが、役所の裏の川にどんどん放りこんだ。
何百万もの古い名前たちが川の表面をびっしり埋めて、しずしずと流れていった。
(中略)
人々が自分でつけた名前には変なものが多かった。
全く変なものが多かった。
名前をつけた本人とつけられた名前が喧嘩することはしょっちゅうで、お互いを殺しあうようになることさえあった。
私たちが「死」に慣れっこになったのはその頃からだ。
私たちはランドセルを背負って長ぐつをはき、名前と人間の双方がながした血がくるぶしまでたまった道路をじゃぶじゃぶ音を立てて小学校へ通っていた。
毎日、人間と「名前」の死体を満載した8トントラックがコンボイを組んで高速道路を走っていた。
小学校3年生の時、わたしの同級生は両親に内緒で自分の名前をつけた。
「止した方がいいよ」とわたしは言った。
「へいちゃらさ」とそいつは言った。
「ぼくの名前はすごくいいやつだよ」とそいつは言っていた。
そいつはそいつの「すごくいいやつ」に殺されてしまった。
それはもう滅茶苦茶に残酷な殺され方だった。
その死体がかつて人間だったとは誰にも信じられないぐらいだった。」(講談社文芸文庫版、13-16頁)