フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月6日(木) 晴れたり曇ったり

2009-08-07 12:50:29 | Weblog

  8時半、起床。昨夜の残りのポトフ、トースト、冷麦茶の朝食。午前中は答案の整理。午後から大学へ。


一晩おいたポトフは美味しい

  今日は未済試験の行われる日だ。未済試験とは、教場試験や定期試験を何らかの正当な理由によって受験できなかった学生に対して行われるもので、私の担当科目については1名該当者がいる。 「メルシー」で昼食(チャーシューメン)をとってから、事務所へ答案を受け取りに行き、ついでに教務室に顔を出すと、安藤先生がいらしたので、しばらく雑談。安藤先生は昨日のフィールドノートを読まれていて、「あれはないんじゃないか」とおっしゃる。私が出版社から原稿の督促の電話を受けた後で、写真美術館へ出かけてことをいっているのだ。外出などしないで自宅に篭って原稿を書くべきであると。確かに一理ある考え方である。もしあと数枚で原稿が仕上がるのであれば、私も迷わずそうしたであろう。しかし、実際は、一日二日頑張ったところでどうにもならない分量なのである。安藤先生は親切にも、「これから一日○○枚のペースで書けばお盆休み前に書き上がるじゃありませんか」と、まるで借金の返済計画を示すように励ましてくださるのだが、その安藤先生ご自身が、基礎講義のレポートにコメントを付けるという論系主任(私)がお願いした作業をまだしてくれていないので、あまり説得力がない。
  研究室に戻り、試験やレポートの成績をweb入力し、確定した成績簿をプリントアウトして、事務所に提出する。時刻は4時半である。これから真直ぐに帰宅すれば、夕食までに2時間ほどの時間がある。その2時間を原稿書きにあてようかという考えが一瞬頭をよぎったが、ワークライフバランスを崩すようなことはすべきではないと思い直し、家を出るときからの予定どおり、京橋のブリジストン美術館へ「うみのいろ うみのかたち」展を見物に行く(木曜日は8時までやっているのだ)。海を描いた絵画をたくさん観ていたら、海に行きたくなった。


ウジェーヌ・ブーダン「トルーヴィル近郊の浜」(1865年頃)

  東京駅に戻る途中、八重洲地下街を歩いていると、「喜八堂」という煎餅屋があって、甘味処を併設していたので、一服する。クリームあんみつと煎餅を一枚注文し、あゆみ書房で購入した『文藝』秋号に載っている小川洋子「寄生」を読む。彼女らしいちょっと不思議な雰囲気の漂う小説だ。


「喜八堂」のクリームあんみつと煎餅

  「喜八堂」の二軒隣は「八重洲古書館」という古本屋である。場所柄をわきまえた小奇麗な古本屋である。新着(?)コーナーにあったメイ・サートン『独り居の日記』(みずず書房)を購入。電車の中で読む。


おっ、こんなところに古本屋が、みたいな

  メイ・サートンは1960年代の後半に小説の中で自分が同性愛者であることを告白し、そのために、大学の職を追われ、本の出版も中止され、折りしも恋人との関係も悪くなり、父親も亡くなりといった、精神的にどん底の状態の中で、再起を期して、ニューハンプシャーの見知らぬ田舎での暮らしを始めた。本書はその1年間の日記である(原書の出版は1973年)。「女性自伝文学の分水嶺とされる傑作」と帯に印刷されている。

  「9月15日。
  さあ始めよう。雨が降っている。
  窓の外に目をやると、楓の数葉はすでに黄ばんでいる。耳を傾けると、オウムのパンチのひとりごとや、やさしく窓を叩く雨を相手のおしゃべりがきこえてくる。
  何週間ぶりだろう、やっと一人になれた。“ほんとの生活”がまた始まる。奇妙かもしれないが、私にとっては、いま起こっていることやすでに起こっていることの意味を探り、発見する、ひとりだけの時間をもたぬかぎり、友達だけではなく、情熱をかけて愛している恋人さえも、ほんとうの生活ではない。なんの邪魔も入らず、いたわりあうことも、逆上することもない人生など、無味乾燥だろう。それでも私は、ここにただひとりになり、“家と私との古くからの会話”をまた始める時ようやく、生を深々と味わうことができる。
  ・・・・・・・・・・・・・・
  思うに、この日記を書くことは、それをするための一つの方法である。もう長いこと、私にとって、人との出会いはことごとくぶつかりあいだった。私は感じすぎ、意識しすぎ、もっとも単純な会話のあとでさえ、その反響でくたくたになった。しかし深いぶつかりあいは実はいつも、生まれ変われていない私、人を苦しめつつみずからも苦しんでいる私自身とのあいだに起こっていたのだ。私はいままで一つの目的のために、つまり自分の考えていることを知り、自分がどこにいるかを見出すために、すべての詩も小説も書いてきた。けれど私には自分の納得する人間になることができない。だから今は不完全な機械のような気がするのだ。まるで肝心の時にはがたがたときしみながら止って“動こうともしない”、いやそれどころか、罪もない人の前面で爆発してしまう機械のように。」(5-7頁)

  夜、原稿書き。今日は4枚書いた。