フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月19日(水) 晴れ

2009-08-20 02:11:02 | Weblog

  「思うようにいかないのが人生だ」と昨日のフィールドノートに書いたが、今日はそれを実感する一日となった。
  8時半、起床。いつものように、朝食はとらず、とりあえず机に向う。1時間ほどして朝食用のパンをトースターに入れようとしていたとき、ベランダで洗濯物を干していた妻が、「雀の子が鳴いている」と言った。見ると、向かいの家の私道に植えられた木の枝にティッシュペーパーの空箱が紐でくくりつけられていて、その中に雀の子がいるのだ。近くの電信柱の高所にある接続箱の中に雀の巣があるのだが、そこから落下したのをお向かいの方が拾って、そこにおいてやったらしい。親鳥を呼んでいるのだろう、さかんに甲高い声で鳴いている。しかし、どう考えても場所が悪い。野良猫が簡単に登れる高さだし、カラスの目にもつきやすい。やられるのは時間の問題だ。弱肉強食の世界のこととはいえ、小さな命が目の前で失われるのを見るのは忍びない。外に出て、近くにいって、箱の中を覗いてみる。ヒナというよりも幼鳥で、まだ空が飛べるほどには羽が成長していない。後ろ髪を惹かれる思いで家に戻るが、やはり気になる。松尾芭蕉の『野ざらし紀行』の中に、富士川のほとりに捨てられて泣いている3歳くらいの子どもに、握り飯を1つやって、「おまえ自身の運のなさを泣け」と心の中で呟きながら、そこを立ち去る場面がある。私も芭蕉に倣おうかと思ったが、無理だった。再び子雀のところに行くと、箱の中に子雀の姿がない。見ると、地面に落ちて、草の中でチーチー鳴いているではないか。私は子雀を両手で拾い上げて、家に連れて帰った。


口ばしは黄色く、顔はペンギンに似ている。

  怪我はしていない。元気な声で鳴いている。しかし、保護してしまった以上、餌を与えなければならない。ご飯粒をやる。食べない。口を開かない。自転車を飛ばして梅屋敷通り商店街のペットショップで小鳥の餌(粟玉)を買って来て、教えられた通りお湯で柔らかくして与えるが、やはり食べない。妻が摺り鉢で摺って与えてみるがやはり食べない。スポイトを使って水滴を口ばしにつけてみると、これは飲んだ。とりあえずホットする。人間なら水だけで一週間は生きられるが、子雀はそういうわけにはいかない。割り箸が太いのかもしれないと、母の使っている耳かき棒の先に摺った粟玉を付けて与えてみたら、はじめて自分から口を開いて食べた。


君の名前は?


キーボードの上で「S-P-A-R-R-O-W」と跳ねた

  インターネットで雀の飼育の仕方、野生への戻し方などを調べる。なかなか面倒なことが書いてある。餌は2時間おきに与えること。赤ん坊の世話と同じではないか。これでは落ち着いて仕事ができない(実際、今日はできなかった)。親は姿の見えなくなった子をしばらくは捜しているから(巣に連れて帰れなくても餌は与えるらしい)、子雀をベランダに出して、鳴き声で親を呼び寄せ、放してやること。しかし、放してやるといっても、まだ飛ぶことができないのだから、地面をピョンピョン跳ねるだけで、それでは親から餌はもらえても、自らが野良猫の餌になってしまうだろう。事実、室内の窓際でチーチー鳴かせていたら、電線に親鳥らしき雀がやってきたが、同時に、「なつ」もやってきて、ニャーニャー(ちょうだい、ちょうだい)と訴え始めたではないか。


ご対面


ロミオとジュリエットか

  というわけで、親鳥の元へ返すのは、もう少し飛行能力がついてからでないと無理だ。食後(子雀の)、座布団の上で落下訓練。一応、羽はパタパタするが、あえなく落下するのみ。そうこうしているうちにまた食事の時間。ゆで卵の黄身をすりつぶしたものを与えると、よく食べた。
  こんな調子で、今日は全然原稿が書けなかった。いま、チーちゃん(さきほどそう命名した)は書斎の一隅で眠っている。木で編んだ籠の中にタオルを敷き、さらにその上にティッシュを敷き(糞の除去が楽なように)、ティッシュを丸めて小さな窪みを作り、そこにチーちゃんを置き、上にティッシュを何枚かかけ、タオルで遮光すると、鳴くのをやめて寝る体勢に入った。やはり鳥だ。夜は寝るのだ。人間の赤ん坊とは違う。しかし、あまりおとなしいとそれはそれで心配になり、ときどき、生きていることを確認する。朝は4時、5時頃から鳴き始めるらしい。ふぅ。