フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月24日(月) 晴れ 夕方一時雷雨

2009-08-25 13:53:42 | Weblog

  7時、起床。睡眠時間4時間半は少々つらい。子雀に餌をやってから、自分の朝食(卵かけご飯)。子雀を鳥かごに入れて2階のベランダに出すとき、リビングを通らないとならない。リビングには「はる」がいる。「はる」はまだ子雀の存在を知らない。自分と子雀が同じ屋根の下で暮らしていると知ったら、おそらく驚天動地、欣喜雀躍、呉越同舟、阿鼻叫喚・・・、とにかくトップシークレットである。


最近、あまりかまってもらえていない気がする

 
今日のベストショット「こいつ~」

 昼から外出。今日は新宿でゼミの学生数人と食事会。合宿の発表の相談をしたい学生もいるだろうと出かけていったのだが、なんと、まだ誰も発表の準備に着手していないことが判明。おまけにセミナーハウスの利用券と宿泊費の請求書を幹事から受け取るつもりでいたら(私が事務所で手続きをするのに必要)、サバサバ・サオリめ、家に忘れてきたという(いつものサバサバした口調で)。あのなあ・・・。雀の子の世話から解放されて都心に出てきたら、もっと手のかかる雲雀の子らが待っていたという感じなり。 中国留学から戻ってきたOさんが合宿に先立って本日の食事会に参加。身長170センチは女子学生の中では一番の長身である。友人からはライオンに似ているといわれるそうである。なるほど。ちなみにゼミにはヒョウに似ているといわれるている女子学生がいる。対決が楽しみだ。


ピーチク、パーチク

  蒲田に戻って来て、くまざわ書店で、都甲幸治『偽アメリカ文学の誕生』(水声者)と天野郁夫『大学の誕生(上)(下)』(中公新書)を購入。
  「日本人がアメリカ文学を研究する意味なんてどこにあるのだろうと思っていた」という一文で『偽アメリカ文学の誕生』は始まる。「アメリカ文学」の部分は他のいろいろな言葉に置き換えることが可能だろう。欧米の圧倒的な影響の下で学問や芸術を学んできた近現代日本の学者や芸術家は誰でも一度は同じような思いにとらわれたことがあったはずだ。都甲は留学先の指導教員から「日本人なんだから日本文学か、それが無理なら日系人の研究に変えたら」と言われてしまう。「おまえがサリンジャーやドン・デリーロについていくら語ったところで、この国で聞きたいと思うやつは一人もいないよ」と言われたも同然だった。都甲は柴田元幸の教え子である。村上春樹の仕事を「日本語でアメリカ文学の模造品を高度な技術で書くこと」だと述べた上で、恩師の仕事について彼は次のようなことを言っている。

  「同じようなことは柴田元幸についても言えた。彼の翻訳はすばらしい。オースターにしてもエリクソンにしても、巧みでスタイリッシュな文章で読者の心の中にずんと入ってくる。そして同じ作品を英語で読んだ人ならみな知っているように、彼の翻訳ともとの本とは決定的に異なる。英語ではオースターはもっと稚拙なまでに簡潔な文章を書いているし、エリクソンはバカみたいに暴力的である。これは別に、柴田元幸の翻訳を非難していって言っているのではない。翻訳は原文のコピーであるという数千年来変わらない考え方を破壊したいと思っているだけだ。第一、ただ原文を写すだけなら、どうして柴田元幸の天才が必要なのか。どうして書店に並ぶすべての翻訳が素晴らしいとは言えないのか。
  答えは簡単。翻訳された本は、もとの本と非常に似てはいるが根本的なところでまったく違う別の本だからだ。だいいちオースターやエリクソンが日本語をしゃべるわけがないではないか。つまり柴田の身体を通じて彼らが日本語で語り出したとき、そこには決定的な詐術が立ち現れる。英語の世界で起こったただ一度の芸術的な事件に匹敵するような表現を、日本語や日本文学の歴史を超高速で検索しながら柴田は捏造しているのだ。そしていわゆる、もし作家が日本語で書いていたら、という作品を生み出すのである。だがもちろん、アメリカ作家たちは永久に日本語で語ることはないし、したがって日本語に置き換えて瞬間、それは決定的に偽物になる。こうしてオースターの作品でも柴田元幸の作品でもなく、同時にその両方である書物ができあがるのだ。これはいったい何なのか。優れた翻訳家とは、いったい一生懸命に何をしているのか。
  アメリカに生まれたわけではないわれわれに本物のアメリカ文学を生み出すことはできない。しかし創作や翻訳という形で、それを材料とした偽物は作れるのではないか。そして限りなく品質を上げることができれば、いつしかそれは偽物としての性質を保ったまま、それはそのものとして本物になるのではないか。これが、村上と柴田の作業をぼくなりに理解した結果である。偽アメリカ文学の誕生、とでも言おうか」(13-14頁)

  「模造品」「偽物」という言葉は、ここでは、マイナスの意味では使われていない。かつて加藤周一が「雑種」という言葉で表現したことを、都甲は「模造品」「偽物」という言葉で表現しようとしているのだ。「ハイブリッド(異種混合)」とでも言えば聞こえはいいが、そういう流行語は使わずに、あえて「模造品」「偽物」と偽悪的な言い方をしてみせたのは、羞恥心とプライドが強いせいであろう。柴田元幸が本書の帯に寄せたコピー。「塵に訊け!」とかつてジョン・ファンテは言った。「都甲幸治に訊け!」と私は言いたい。<偽アメリカ文学の誕生>を告げる本書は、すぐれた<偽アメリカ文学者>の登場を告げてもいる。アメリカ文学のいまを知る上で最良の書。