フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月4日(土) 晴れ 午後、にわか雨

2012-08-05 04:23:25 | Weblog

  7時、起床。カレーライスと牛乳の朝食。 うちのカレーライスはジャガイモがたっぷり。息子がジャガイモ好きだからだ。

  家裁の調査官をしている卒業生のYさんから暑中見舞の葉書が届いた。「私の方はいろいろなことが重なりましたが、最近落ち着いてきました」とある。いつも控えめでもの静かな印象のYさんがそう言うのだから、本当に「いろいろなこと」があったに違いない。先日、神奈川県立近代美術館葉山館の「松本俊介展」に行ったときに購入した絵葉書の中から「駅」というタイトルの一枚を選び、返信を書く。

  9時半頃、自宅を出て、大学へ。今日と明日はオープンキャンパス。私は個別相談の担当。受験生やその親御さんからの質問を受ける。午前11から午後5時まで、途中で30分の昼食休憩と、15分の小休憩を一度挟んだだけで、次から次、20数組の相談を受けた。喉がカラカラになった。

  帰り途、丸善丸の内店のカフェに立ち寄り、東京駅に出入りする電車を眺めながら、瀬尾まいこ『ぼくらのごはんは明日で待っている』を読む。

  妻に電話をして、蒲田駅には7時頃に着くので、改札で待ち合わせて、夕食を外でとることにする。

  「天味」で天ぷら食べる。


蜆の味噌汁


海老(塩で) 「天味」の天ぷらは衣をしっかりと揚げるタイプ


キス(半分塩、半分天つゆで)


穴子(半分塩、半分天つゆで)


舞茸(天つゆで)


稚鮎(塩で)


アスパラ(塩で)


海老(天つゆで)


最後のかき揚げは小天丼で


ごちそうさまでした。

   慶応大学の有末賢さんから新著『生活史宣言 ライフヒストリーの社会学』(慶応義塾大学出版会)を頂戴した。博士論文である「生活史の社会学―その方法と課題」(2002)を原型として加筆修正をしたものである。有末さんは私より一歳年長だが、生活史研究の分野における大先輩である。私自身は、ある時期から、「生活史(ライフヒストリー)」ではなく「ライフストーリー(人生の物語)」という言葉を使うことが多くなったが、有末さんは「生活史」という言葉にこだわりを持っている。

  「ライフ・ストーリーの物語性や社会的構築の要素を考慮しながらも、生活史における事実や証言の要素に最も重点を置いている。「フィクション」であることや、「虚構」であること前提とするのではなく、「歴史的事実」であることを前提としつつ、フィクションや物語の虚構性を含むこともあるという点を考えていかなければならない。」(2頁)

  生活史というのは、私の考えでは、客観的事実と主観的事実の両方を含むものである。客観的事実とは、生活史の語り手以外の人からも収集可能で真偽の判断が可能な事実のことである。たとえば、Aさんの父親の職業が医者であった(なかった)というのは客観的事実である。これに対して、主観的事実とは生活史の語り手からしか収集できない事実のことである。たとえば、父親が医者であったということが、Aさんの進路形成にどういう影響を与えたとAさんが認識ているかということは、Aさん自身に答えてもらうしかなく、その真偽を他者の証言から判断することは原理的にできない。Aさんがそう考えているということ、あるいは本当はそうは考えいないのかもしれないが、少なくともそう考えていると聞き手に思ってもらいたいと考えていることは、事実である。ライフストーリー(人生の物語)とはこうした主観的事実の総体である。生活史における客観的事実と主観的事実のどちらにより重心を置くかが、有末さんのように「生活史」という言葉にこだわるか、私のように「ライフストーリー」という言葉に乗り換えるかの分かれ目であるわけだが、どちらにより重心を置くかは、生活史というものを使って、何を研究しようとしているかの違いであるといえる。生活史を通して語り手の生きた時代や社会を研究しようという場合、生活史の事実的側面が重視される。一方、生活史という現象そのもの、人が自分の人生を振り返って、それを書いたり話したりするという行為そのものを研究しようとする場合、生活史の物語的側面が重視される。私の関心は後者だが、有末さんは両方に関心があり、事実、そうした仕事をされてきた。そして両方を含めて表すには、「生活史」という言葉の方が適切である、と私も思う。

  「あとがき」を何気なく読んでいたら、「昨年以来、がんとの闘いも加わって」と書かれていたので、びっくりした。そうした闘いの中で、本書を世に出されたのかと思うと、「宣言」という言葉が急に重みを持ったものに感じられてきた。

  「『生活史宣言』とは、ずいぶんと大上段に振りかざしたタイトルになってしまったが、意図していることは、生活史(ライフヒストリー)という手法、視点、分析などを再評価したいという一点にある。現代社会学や文化人類学などの領域においては、むしろ最近は『ライフ・ストーリー』という呼び方の方が一般的となっている。・・・(中略)・・・しかし、それにもかかわらず、私はあえて『生活史宣言』をしたかった。「生活史」という言葉に対して、何よりもなじんでいるし、日本語の文脈において使用していく際に、あえて外来語を使用しなければならないとは考えなかった。・・・(中略)・・・「生活史宣言」においては、まずシンプルな言明において、生活史研究の意義を読者に理解していただきたいと願っている。その意味で、マニフェスト(宣言)という形式によって、提示していきたい。・・・(中略)・・・二一世紀の現代社会において、個性ある人間像が要求されているが、その「個性」と「時代状況」は、生活史を媒介として結び付けられる。だからこそ、現代において『生活史宣言』が必要なのである。」(2-3頁)

  本書を大学院の秋学期の演習で読もうと決めた。