8時半、起床。寝たのが遅かった(午前4時頃)ためだが、寝たのが遅かったのは、夕食の後に2時間ほど寝てしまったせいで、なかなか眠くならなかったからだ。夕食の後に寝るのは寝不足気味だからだ。つまり一種の悪循環で生活時間が本来のモデル(7時起床)から逸脱している。今日は昼寝をして、夕食の後は寝ないようにしよう。そして午前1時には寝るようにしよう。
本来のモデルから逸脱しているのは生活時間だけではない。体重もだ。要注意ラインから2キロほどオーバーしている。一般に体重の増加は消費カロリーよりも摂取カロリーの方が大きいときに起きる。消費カロリーが以前より小さくなったということはないと思うので(8月に入って週2のペースでジムに通っている)、摂取カロリーが大きくなったのが原因だろう。簡単に言えば、食べすぎである。このところの日誌を読み返して、思い当たる点がいくつかあるが、とにかく改善しなければならない。
バタートースト、グレーププルーツジュース、フルーツ&ヨーグルトの朝食。
午前中、書斎でPCに向かっていると、近所のどこかの家から女性の大きな声が聞こえて来る。どうやら夫婦喧嘩、親子喧嘩らしい。しかし、大きな声は妻ないし母親のもので、夫ないし子供はじっと耐えている(あるいは小さな声で応じている)らしい。大きな声は断続的に長く続いていた。後で母に尋ねたら、よくあることらしい。周りの目(耳)を気にせず、あんなに大きな声を出せるというのは、ある意味、あっぱれという気がする。
午後、「寿々喜」に泥鰌を食べに出かける。鰻が高いからではない。久しぶりに泥鰌が食べたくなったのだ。メニューに載っているのは柳川鍋と泥鰌汁の2つだったので、柳川鍋を注文する。店員さんが「いまの季節は泥鰌を背開きにしないで使いますが、よろしいですか」と聞いてきたので、「?」と思った。柳川鍋といったら背開きにするものだと思っていた。でも、私は泥鰌はそのまま調理する丸鍋の方が好きなので、「かまいませんよ」と答えた。厨房が忙しくて、背開きにする手間を省いているのかと思ったら、そうではないことが運ばれてきた柳川鍋を食べてわかった。泥鰌の腹の中に卵がいっぱい詰まっているのだ。これを背開きにしたら、せっかくの卵が散乱してしまう。久しぶり食べる柳川鍋は実に美味しかった。野趣に富んでいるが、決して下卑てはいない。甘辛く味付けられた泥鰌の苦味、そして卵の歯ざわり・・・、ご飯のお替りを辛うじて我慢した。
創業昭和10年、蒲田で鰻といえば「寿々喜」である。
「鰻のたたき」というのはまだ食べたことがない
柳川鍋(ただし今日の泥鰌は丸のまま)
食後のコーヒーは「テラス・ドルチェ」で、1時間ほど読書をしながら。
TSUTAYAで『新世紀エヴァンゲリオン』のTV版の最初の4話分と、劇場版の前編・後篇のDVDを借りる。秋学期の演習「ケーススタディの方法」の下準備のためである。昨年度に続いてテキストは宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫)であるが、そこでは、1995年頃から2008年までの小説、映画、漫画、テレビドラマ、アニメーションなどの「物語」がもっている想像力の変遷が分析されている。実にたくさんの作品が俎上に上るのだが、とくに重要な作品については夏休みの間におさらいをしておこうと思うのである。
帰宅して、少し昼寝をしてから、ジムへ行く。カロリー消費を増やすべく、有酸素運度の時間を35分から45分に拡大する。牛丼一杯分のカロリーを消費した。
トレーニングの後、ジムの一階下のスポーツ用品店「ビクトリア」で、ウォーキングシューズを購入。「マルエツ」のイートインコーナーでアイスカフェを飲みながら、今日の日誌を付ける。
内閣府が25日付で発表した「国民生活に関する意識調査」(今年の6・7月に実施)によると、「心の豊かさ」と「物の豊かさ」、今後の生活で重きを置きたいのはどっちかと尋ねた質問に対して、「心の豊かさ」と答えた人の割合が昨年10月に実施された同調査よりも2.6ポイント増えて、過去最高(1972年以来)の64.0%を記録した。内閣府の担当者は「人との絆や家族との関係を重視する傾向が、東日本大震災以降さらに強まっている」と分析しているとのこと。「またか・・・」と思う。もしかしたら高度な統計的分析を踏まえて言っているのかもしれないが、この種の現象をすぐに東日本大震災の影響と考える思考回路は単純すぎると思う。「心の豊かさ」を重視する人が震災後に急に増えたというなら話は別だが、時系列データからわかるように、「心の豊かさ」を重視する人はこの質問が調査票に組み込まれるようになった1972年以来、小さな上下動をくり返しながら、全体としては一貫した増加傾向にある。つまり、「心の豊かさ」を重視する傾向というのは近代化を構成するさまざなな趨勢の1つなのであって、もし東日本大震災が起きなくても、増加しつづけたであろうと思われる。前回から2.6ポイント増えたといっても、それは特筆するほど大きな変化ではない。過去にはそれより大きな増加のあった時期が何回かある(最大のものは、平成3年から4年にかけての5.2ポイントで、最近では、平成17年から18年にかけて5.1ポイント増えている)。そもそも震災のあったのは平成23年3月であるから、その影響は今回と前回の調査よりも、前回〈平成23年10月)と前々回(平成22年6月)の調査を比較した方がよいと思うが、そこでは1.4ポイントの増加に留まっている。震災の影響は見られないと言いたいわけではない。影響がないわけはないと思うが、それはあくまでも趨勢に影響を与えている様々な要因(政治・経済・文化・社会的諸要因)の1つとしてみるべきであって、特化してみるべきものではないと言いたいのである。
データは内閣府ホームページから:http://www8.cao.go.jp/survey/h24/h24-life/zh/z35.html
いま、「震災の前後で世界は一変した」という「語り」が巷にはあふれている。しかし、世界とは何だろうか。それは誰にとっての世界なのだろうか。震災で肉親や大切な人を失った人や、仕事を失った人や、住みなれた場所を離れなくてはいけなくなった人にとって、生活や人生は一変したであろう。一方、震源地から遠く遠く離れた場所で暮らす人たちにとって、震災はリアリティのあるものではないだろう(それを想像力の欠如として責めるのはやめよう。それこそ想像力の欠如した人間のすることだ)。そして両者の中間に、目に見える直接的な被害はないけれど、いまもときおり感じる余震と原発事故による放射能の不安の中で暮らしている人たちがいる。私もその一人だ。それは存在論的不安と名付けてよいものだと思う。そうした不安は、客観的なデータで「ほら、このとおり」と示すことは難しい。しかし、「震災の前後で自分の生き方はどう変化しただろうか?」と自問してみれば、各自の答えは案外はっきりと出るのではないだろうか。私自身について言えば、以前よりも「一期一会」という気持ちで人と接するようになったし、したいことを先延ばしすること(現在を未来に従属させること)を忌避するようになったと思う。ただし、これは震災だけの影響によるものではない。きわめて個人的な出来事の影響も大きい。人生は複雑である。さまざまな要因の相互作用によって展開する現象である。そのことを忘れてはいけないと思う。