8時半、起床。
昼近く、朝食兼昼食を「越中屋」に食べに行く。
小女子と玉ねぎの天ぷら(250円)、ししゃも(200円)、納豆(70円)、味噌汁(30円)、ご飯(170円)、そして途中で追加でほうれん草のおひたし(150円)を注文。〆て870円也。当然ながら、天ぷらは揚げ立てで、ししゃもは焼き立てだ。うまいに決まっている。大いに満足。
食後のコーヒーを「あるす」に飲みに行く。
先週の月曜日が誕生日だったマダムに押し花(ミモザ)のスタンドをプレゼントする。昨日、Kさんにプレゼントしたのと同じ仕立てのもの(Kさんのは紫陽花)である。
マダムは私より一回りほど年上である。「この歳になると、私も主人も誕生日だからとくに何かをするということはなくなってしまいました。どうもありがとうございます」と礼を言われる。
モカを注文する。
コーヒーを飲み干すと、紅茶とお菓子がサービスで出てくる(いつものことです)。
自宅の庭で獲れた夏みかんも出てくる(いつものことです)。
さらにお土産に夏みかんを5ついただく(いつものことだが、いつもより個数が多い)。
駅の方へ行って買い物をするつもりだったが、夏みかんが重いので、いったん自宅に戻って、置いていくことにした。
道端の草花が雨に濡れて晴れた日とは違った表情を見せている。名前を知っている草花もあれば、名前を知らない草花もあるが、「あっ、〇〇だ」と名前で認識してしまうと、それですんだ気になってしまうところがある。名前を知らない方が、ハッとした思いを名前を経由しないで、ストレートに味わうことができるように思う。
われわれは言葉(名前)というフィルターを通して世界を見ている。言葉を覚える前の小さな子どもにはそうしたフィルターなしに直に世界と触れている。本物の詩人はフィルターから自由になって自分の目で世界を見て、自分の言葉でそれを表現しようとする。普通の人間にできることは、その草花の傍らにしばし黙ってたたずむことである。
蒲田駅のみどりの窓口の自動券売機で、5月17日(土)の新宿10:00発(茅野まで)のあずさ11号の特急券と乗車券を購入する。今年も高校時代の友人Kの別荘を訪ねる小旅行を数回するだろう。去年はGWの入り口あたりに行ったが、今年は母のことや原稿のことがあったので、GW明けの最初の週末に出かけることにしたのである。
ユザワヤで額を購入し、書家のTさんに書いてもらった自作の句を納めてみる。「生きる意味を問ふこともなく冬銀河」と「寒鰤の一点盛りの潔さ」。なかなかのものではないだろうかと、自画自賛する。たかじさん、自画自賛。
夕飯は予告通り息子の好物の餃子。
先週の金曜日に1997年卒のSさんが研究室にやってきたことをブログに書いたが、それを読んだ2000年卒のMさん(先々週の月曜日に研究室に来た)は驚いた。自分が日頃から愛読しているウェッブマガジンのお気に入りのライターがSさんその人であることを知ったからだ。さっそくMさんは社会学専修の先輩であるSさんにファンレターのようなメールを出し、近々、会ってもらえることになったそうである。そのことをMさんが私にメールで知らせてきた。「なんだかワクワク、とても嬉しいです」と。それはよかった。初夏のお気に入りの服を着て会いに行くことです。