フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

5月4日(日) 晴れ

2014-05-05 12:26:51 | Weblog

     8時半、起床。今朝は涼しい。

     ハム、レタス、バタートースト、牛乳の朝食。 

 

     昼食は今年最初の冷やし中華。

     授業で読む予定の本を鞄に入れて、散歩に出る。

     玄関先でなつが気持ちよさそうに昼寝をしていた。

     読書は「ルノアール」で。

     浅野智彦『趣味縁からはじまる社会参加』(岩波書店、「若者の気分」シリーズ」)は、「趣味」という個人的な領域での活動が「社会参加」という公共的な領域での活動に展開する可能性について考察した本である。ここでいう「社会参加」とは、「個人の力によっても親しい他者との協力によっても解決の難しい問題に向けて、必ずしも親しくない他者たちとの間に協力関係を組織していくこと」(10頁)である。若者の政治的無関心ということが言われるようになって久しいが(1970年前後の大学紛争が終焉して以降)、本書では、水と油のように見える、「趣味」と「社会参加」をリンクするものとして「趣味縁」という概念が使われている。趣味を通じて繋がっている人間関係のことだ。もちろん「趣味縁」はそれだけでは「社会参加」にはならない。「趣味縁」に何らかの条件というか刺戟が与えられた時、「社会参加」へと変貌していく(と想定されている)わけである。

     「人びとの生活を下支えする役割から国家や企業が手を引き始め、家族もまたその負担に耐えられなくなりつつある現在、それらのいずれでもないような協力と連帯の仕組みが求めれている。そのような協力と連帯をゼロから構想するのはあまり現実的ではないだろう。必要なのは、むしろ現にあるもののどこを支援することによって、最もよくそれを実現できるのかと考えてみることではないだろうか。「無縁社会」や「弧族」なとといった言葉が流行語になる一方で、趣味縁は若者の間に存在している。「新しい公共」を若者の生活に即して主題化するのなら、趣味縁はその重要な一部をなすはずだ。それを考慮するかしないかで、支援の仕方もずいぶんと変わってくるであろう。」(3頁)。

     言わんとしていることはわかるのだが、文中に二度登場する「支援」という言葉が少々気になる。若者の趣味縁を「支援」するのは誰なのだろう。そうしたアクターがここでは想定されているようだが、それって一体、誰(何)なのだろう?

     サンドウィッチとコーヒーを注文して、2時間ほど滞在。本を読んでいる時間よりも、考えたことをノートに書いている時間の方が長かった。

     カフェを梯子して「テラス・ドルチェ」へ。読書の続き。

     コーヒーを注文して、1時間ほど滞在。

     最後は読書カフェ(物思いカフェ)ではなく、おしゃべりカフェである「phono kafe」に顔を出す。

     時刻は6時を回ったところ。先客はおらず、私が本日最後の客となった。

     大原さんが見つめるのは母の日のカーネーションではなく、間もなく開店1周年を迎えるということで、カナリアさんが贈ったカーネーション。いま、花屋さんはカーネーション一色なのだろう。

     りんごジュースと、丸麦とコーンとバジルのサラダを注文。

     単品の惣菜は通常は小鉢に入って出てくるのだが、私が写真に撮ることを考慮して、白いお皿に盛って出していただいた。小鉢だと上からの写真しか撮れないが、皿だと横からの写真も撮れて、なおかつ明るく撮れるのである。

     我が家の今日の夕食は筍ご飯と野菜の天ぷら。

     今夜は、女子卓球に見入った。世界選手権団体戦準決勝、日本対香港。大変な接戦で、手に汗握るとはこのことだ。

     第一試合で今大会無敗の石垣優香が0-3のストレートで破れ、いやな感じのスタートだったが、第2試合で石川佳澄が3-2で勝って振り出しに戻した。

     続く第3試合で、平野早矢香が0-2の劣勢から3ゲームを連取して、3-2で逆転勝ち。結果的にこれが大きかった。頼れる姉貴である。

     そして第4試合。2戦目となる石川佳澄がエース同士の戦いを3-2で制して、勝利を決めた。ふぅ。卓球って、どうしても息を止めてみちゃうよね。

     卓球が終わってから、録画しておいた今夜の『情熱大陸』を観る。番組の800回と対応してだろうか、1988年生まれの芸能人やスポーツ選手たちへのインタビューから「1988年生まれ」の特徴を検証しようという企画らしい。出演者の何人かが言っていたが、「世代でひとくくりにされたくない」というのはわかる。それはそうだろう。個人差は大きい。番組の作り手たちもそれは百も承知だろう。その上であえて「1988年生まれ」の語りにこだわるわけだが、注意が必要なのは、その語りは彼らの出生年よりも、いまの時点での彼らの年齢を直接的には反映したものであるだろうということ。25、6歳というのは、若者たちが大人の世界に踏み出してまだそれほど時間がたっていない時期だ。試行錯誤の時期だろう。彼らの語りにはそうした時期に特有の希望や不安や自負や苛立ちがある。さらに注意が必要なのは、出演している若者たちは、その年齢にしては、すでに一定の成功を手に入れ、さらなる高みを目指している人たちであるということだ。 つまり現代社会における25、6歳の若者たちの一般的なサンプルではない。そうした留保をしつつも、彼らの語りに「1988年生まれ」の特徴を見いだすことは不可能ではない。なぜなら、彼らはみな、2014年という歴史的時間軸の上で、25、6歳の若者たちであるからだ。どの時代にも共通する若者的語りだけでなく、2014年に25、6歳であるということの痕跡(それは1988年生まれであることに由来する)は仔細に分析すれば必ず見つかるはずだ(番組の分析はそれほど深くないが、番組の後半は来週放送なので、それを見てからでないと何とも言えない)。

     普段、私は『情熱大陸』という番組は観ていない。今夜、それを観たのは、昼間、1988年生まれの卒業生からメールが来て、「先生ももしお時間がありましたら、ご覧ください」と言われたからである。その卒業生は、番組からどのようなメッセージを受け取ったのだろうか。