フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

5月3日(土) 晴れ

2014-05-04 11:52:12 | Weblog

     8時、起床。

     目玉焼き、ソーセージ、サラダ、パン、牛乳の朝食。しっかり食べる。

     昼食は軽く。母が作った大根と鶏肉と高野豆腐の煮物。それと柏餅。

     はるがテーブルの上の新聞の上に乗って、私の方をジッと見ている。

     食事の後、ソファーで雑誌を読んでいるとすりすりしてくる。今日は人恋しいモードなのだろうか。

     そのとき読んでいたのは『月刊俳句界』という雑誌の4月号。20年くらい前から出ている雑誌のようである。現役の俳人20人に「わが青春の一句」(初学の頃、胸を熱くし、目標とした〝青春〟の一句)を尋ねている。能村研三(「沖」主宰)は次の一句をあげていた。

        春ひとり槍投げて槍に歩み寄る  能村登四郎

     能村登四郎は研三の父親であり、俳句の師である。迷わずに(と思うが)父親の句をあげているところが清々しい。句それ自体もストイックな清々しさがある作品である。槍投げといえば、俳句ではないが、土岐善麿(哀果)の短歌に、「槍投げて大学生の遊ぶ見ゆ大きなるかなこの楡(にれ)の木は」がある。好きな短歌だが、詠まれている世界はずいぶんと違う。

     「父であり俳句の師である登四郎の代表句である。昭和四十二年、登四郎五十六歳の作で、この時私は十七歳でまだ俳句を始めておらず、父が教鞭をとっていた高校に通っていた。この三年後に登四郎は「沖」を創刊、その翌年から私は俳句を始めた。勿論この句を知ったのも、俳句を始めてからであるが、子どもの頃から父が俳句に立ち向かう姿勢だけは肌身で感じていた。この句は単なる陸上部の槍投げの練習風景を写生したものではない。ひとりの若者が力かぎりに槍を投げては、しずかにその槍を拾いに歩み寄ってゆく。その孤独な姿は、「自分が打ちこんできたものを自分で確かめ、反省し、そして自己更新をする」父の俳句姿勢そのものである。境涯俳句、風土俳句から脱却し自らが言う「冬の時代」から大きく転換するきっかけとなった句でもある。過去を自らで清算し、常に今の自分の新しさが一番であると信じて俳句を作る姿勢を父から学んだ。」

     ちなみにもし私が「わが青春の一句」を尋ねられたとしたら、迷わずに次の句をあげるだろう。

        バスを待ち大路の春をうたがはず  石田波郷

     大路(おおじ)とは大きな道路の意味だが、この句では、石田が住んでいた鎌倉の若宮大路のことである。季節が春になったことを確信している句であるが、17歳だった私はこの句を自分が青春の只中にいることを確信している句として読んだ。

     鞄に『俳句界』を入れて、散歩に出る。

     今日も夏日。

     池上駅前の喫茶店「エノモト」で一服。クリームソーダを注文。

     『俳句界』には「結社の未来を考える若手座談会」というシリーズがあって、今回は、大谷弘至(「古至」主宰)、鎌田俊(「河」副主宰)、高柳克弘(「鷹」編集長)、日下野由季)の4名が登場していた。いずれも30代の有力俳人たちである。それぞれの近作5句が紹介されていたが、その中から一句ずつ選んでみる。

        そのむかし神に仕えて暦売  大谷弘至

        ばらの雨白い鯨が来るだろう  鎌田俊

        わかりあえず同じ暖炉の火を見つめ  高柳克弘

        はくれんの空に生まれるごとひらく  日下野由季

     いい写真を見ると写真を撮りたくなるように、いい俳句に出合うと俳句を作りたくなる。

     では、いい人と出会うと自分もいい人になりたくなるかというと、どうも、そういうことはないようである。

     散歩の終わりに「phono kafe」に顔を出す。リンゴジュースとごぼうのフリットを注文。

     今日はなかなか忙しかったそうだ。初めて来た3人連れの客さんを満席ですのでと断ったそうだ。「待ちますから」と言われたらしいが、待たれているのも他の客には落ち着かない話なので、断ったそうだ。それはそれは、断腸の思いでしたね。

     閉店の10分前に入ってきた客と入れ替わりに店を出る。

     我が家の今夜の献立は麻婆豆腐。

     先週録ったままでいた『ルーズベルトゲーム』の初回を観る。ずいぶんとテンションの高いドラマだ。最初から飛ばしている。『半沢直樹』に出ていた役者が数人、『あまちゃん』に出ていた役者が数人、重要な役所で出演している。