フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月3日(土) 晴れ

2015-01-04 11:58:13 | Weblog

8時半、起床。

磯辺焼きの朝食。

2015年度の講義要項の作成に着手する。昔は、講義のテーマと授業の進め方について簡便に書くだけでよかったから、一日で終わったが、いまは15回の授業の各回の内容まで事前に書かなくてはならなくなった。

お昼に娘と一緒に病院の母を見舞う。

大久保教授の回診です。いえ、お見舞いです。

昼食時間であったが、母は絶食中(点滴のみ)で、ベットに寝ていた。昨日の入院直後は気が張っていたが、今日はあまり元気がなかった。それでも明日、妹夫婦が蒲田にやってくるので、お鮨は「濱清」からとるようにとか、近所の肉屋で鶏の唐揚げを買ってくるようにとか、冷蔵庫に缶ビールが2本冷やしてあるとか、お歳暮にもらったハムを切って出すようにとか、帰るときにゆずとハムを土産にもたせてやるようにとか、いろいろ細かい指示を出す。仕切りたがり屋なのである。普段であれば、うるさいな・・・と思うとこであるが、はい、はいとメモを取る。

病院には1時間半ほど滞在して、そこからジムへ。ジムは空いていた。クロストレーナーを50分漕いで、700キロ超のカロリーを消費。

ジムの後は、「テラスドルチェ」で一服。

真冬のアイスコーヒー。

デイヴィット・ピリング『日本―喪失と再帰の物語  黒船、敗戦、そして3.11』(早川書房)を読み始める。 

「大きな物語」の喪失というのがポストモダンの日本を語るときの決まり文句になってから久しい。しかし本当にそうだろうか。皮肉なことに、そういう見方自体が一種の「大きな物語」となっているのではないだろうか。確かに右肩上がり的な「成長」や「進歩」を基調とした「大きな物語」は力を失った。しかし。、「大きな物語」を希求する気持ちも一緒に失われたわけではない。さまざまな「小さな物語」の集積体としてはたして社会が成り立ちうるのかは疑問である。本書が提示している「再起の物語」は、「ポスト成長(進歩)の物語」の有力候補の1つである。

「私が本書で書きたかった再起の物語とは、あの津浪の話だけではない。扱っているのははるかに幅広いテーマだ。・・・(中略)・・・今回の悲劇は私たちがそもそも記憶にと留めておくべきだったある事実を思い出させてくれた。それは地球上でも有数の地殻が不安定なこの地域に住む人々が、並外れた回復力を有しているということだ。」(26-27頁)

夕食はモツ鍋。食卓も「ポスト正月料理」を希求し始めている。

デザートはイチゴ。今年も私の「小さな物語」はイチゴ(一期)一会を主題とするものになるだろう。

『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』という旅番組を初めて視た。先日、出演者の一人である蛭子能収の本『ひとりぼっちを笑うな』を読んで、その中でこの番組のことに触れられていたので、視てみたのであるが、頼れるリーダーの太川陽介(彼も最近『ルイルイ仕切り術』というこの番組と関連した本を出している)、めげるマドンナ(今回はマルシア)、そして心配性でマイペースの蛭子能収という役割分担のはっきりしたチーム構成だった。そして苦労の末にチームは目的地(金沢兼六園下)にたどり着いた。たぶん最後は兼六園の夜景で終わる段取りだったのだろうが、すでに園内には入れない時間になっていて、バス亭でのエンディングになった。それがかえってリアリティがあってよかった。