8時、起床。
クリームシチュー、トースト、サラダ(トマト、レタス)、紅茶の朝食。
居間の床の上にあった無印良品の大きな袋の中ではるが寝ている。
病院に母を見舞いに行く前に妻と「phono kafe」で昼食(ご飯セット)をとる。惣菜は6種類全部を注文し、シェアして食べる。
ごぼうのフリット。
菜の花とコンニャクのガーリック風味
柿と春菊の白和え、玄米と豆腐のタルト人参ソース添え
蕪とテンペの梅肉和え、ピーマンとベジミーとのバルサミコ炒め
食後にハニーブッシュ。妻はコーヒー。
先日、大原さんと常連の女性3人で「あるす」に行ったそうだ。コーヒーを注文したわけだが、林檎やパンや紅茶も出てきて、庭で獲れた夏みかんをお土産にいただいたそうだ(私のときと同じである)。商売でカフェをやっているわけでないのである。
病院には川越から妹も見舞いに来た。デイルームでしばらくおしゃべりをする。
3時半頃、病院を出て、その足でジムへ行く。病院からジムまで20分ほど歩く。
ジムではクロストレーナーを50分。650キロカロリーを消費。
ジムでのトレーニングの後は、「テラスドルチェ」で一服。
原田曜平『女子力男子』(宝島社)という本を読む。「SKIPA」仲間の秋山千佳さん(フリーライター)が執筆協力をされた本である。
ここでいう「女子力男子」とは、「従来、女性がやっていたり、得意とされたりした領域の力が備わっている男性」のことである。近年、そうした「女子力男子」が増えている。しばしば指摘される若者の消費離れという現象は、仔細にみると、消費離れではなく、男子が男性的消費から離れて女性的消費に移行している現象なのだという指摘は、なるほどと思った。
女子力男子の増加は、男子の女子化ということであるが、女子の男子化は以前から起こっている。社会は男性的領域と女性的領域から構成されているが、女子が女性的領域から越境して男性的領域に侵入するという現象は、大正時代の「職業婦人」という言葉に象徴されるように近代の早い段階から起こっている。それに対して、男子が男性的領域から越境して女性的領域に侵入するという現象は、目に見える形では起こって来なかった。それは男性的領域と女性的領域が上下の関係に置かれていたからである。下位的領域(女性的領域)から上位的領域(男性的領域)への女子の越境は「上昇」(成功)であり、「かっこいい」とみなされるが、反対に、男性的領域から女性的領域への男子の越境は「下降」(失敗)であり、「かっこわるい」とみなされるからである。別の言い方をすれば、男性的領域と女性的領域の間の越境行為の一方向性・非対称性(女子は越境しようとするが、男子は越境しようとしない)こそ、男性的領域と女性的領域の上下関係を証明するものなのである。
男子の女子化=女子力男子の増加は、そうした上下関係が揺らぎ、男性的領域と女性的領域が横並びになりつつあることの証拠である。越境が上昇ー下降ではなく、趣向の問題、選択の問題として認識されるようになってきたのである。その背景には「失われた20年」の中で、「稼ぎ手」としての男性の経済力が低下したことがあるだろう。経済力の低下は「妻子を喰わせる」という伝統的な男性性を弱いものにする。経済力の低下が政治力の低下をもたらしたわけだ。その意味では「失われた20年」も悪いことばかりではなかったわけだ。「失われた20年」といういい方は、失われたものばかりに注目した言い方だが、新たに得たものもあるはずである。また、失われたものがすべてよきものであったわけではなく、悪しきものも失われたのである。本書を読みながら、私はその思いを強くした。
男子の女子化はとりあえず若者の間で顕著だが、それは社会の変化に敏感に反応するのがいつも若者たちであるからだ。しかし、男子の女子化は若者だけにとどまらないだろう。中高年も若者のライフスタイルを真似るものだし、より長期的には、女子化した若者たちが大人になっていくからだ。おじさんのおばさん化、おじいさんのおばあさん化という現象がこれから観察されてくるだろう。何よりも私自身がそのことを自覚している。
新年の挨拶方々「一二三堂」に寄って、初買い。
唯川恵『逢魔』(新潮社)
片岡たまき『あの頃、忌野清志郎と―ボスと私の40年』(宝島社)
角田光代『降り積もる光の粒』(文藝春秋)
香川リカ『怒り始めた娘たち―「母娘ストレス」の処方箋』(新潮社)
亀山早苗『「最後の恋」に彷徨う男たち』(双葉社)
今日は長寿会(老人会)の新年会だったのだが、母は出られなかったので、そのお弁当だけもらってきた。夕食はその「今半」のお弁当。
今日はジムでトレーニングをしたので、夜のランニング&ウォーキングはお休み。