7時半、起床。就寝が4時半だったので、3時間睡眠だ。
エビフライ、トースト、サラダ(トマトとレタス、マッシュポテト)、紅茶の朝食。丼ご飯の上にたいていのものはのせることができるようにトーストの上にもたいていのものはのせることができる。ただ、海鮮丼→海鮮トースや、ピザトースト→ピザ丼は無理だろうと思う。
9時半に家を出て、大学へ。今日が私の授業初日だ。
キャンパスのそこここに事務所の方が立って、新入生に教室の場所を教えてあげている。ごくろうさまです。
桜が散って、今日は小雨が降っている。
2限は演習「個人化の社会学」。0次登録の時点で40名の定員に達したが、初回の出席者は35名。今日欠席の5名の中には、たまたま体調不良で欠席した(次回から出てくる)学生もいるのかもしれないが、登録しただけで一度も出てこない学生というのが毎年数人いる。講義は登録の取り消しができるが、演習はできない。だから事実上定員に「空き」が出来ても追加登録を受け付けることができない。どうしてもこの演習がとりたくて、0次登録で選外になった学生には納得できない話だろう。「だったら私に出させてください」と。
8名ずつ前に出て、ホワイトボードに名前を書いて、一人1分の自己紹介をしてもらう。フロアーの学生からの質問にも答えてもらう。8名全員の自己紹介が終わったら、次のグループと入れ替わる前に写真を撮る。写真はあとからコースナビにアップして、クラス全員の顔と名前がわかるようにする。演習のテーマである「個人化」は時代の趨勢で、これにはプラスの側面(自由)とマイナスの側面(孤立化のリスク)がある。個人化=孤立化ではないが、他者との間にコミュニケーションが乏しいまま個人化が進行すると孤立化となる。相手の顔と名前を覚えることはコミュニケ―ションの第一歩である。そして、二歩目は相手に話しかけることである。次回は、発表のグループ決めを行う。テキストにざっと目を通して、担当を希望する章の目星をつけておくこと。
2限が終わるのは12時15分。3限は13時から。昼食のための時間jは正味30分ほど。外に食べに出る時間はないから、蒲田駅で買った崎陽軒のシューマイ弁当を研究室で食べる。これから火曜日は毎週こうなるだろう。せめていろいろなお弁当食べてみたい。人生はどういう状況でもそれなりの楽しみを見つけることができるものである。
3限は講義「現代人のライフスタイル」。大教室(453)での講義は1年ぶりである。同じ大教室でも36号館AV教室は講義がしやすく、38号館AV教室は講義がしにくい(*個人の感想です)。 453教室は中間に位置するだろうか。久しぶりなのでまだ勘が戻っていないところがあり、おまけに寝不足で頭の回転が鈍くなっていて、出来はいまひとつだった(そういうことは自分で分かるものである)。
39号館(第二研究棟)裏の崖の上の桜は大島桜だろう。白い花と若葉の混じり具合が美しい。木の下の紫の花はハナダイコン。このコントラストも美しい。研究室の前の廊下の窓からの眺め。
この3月に文化構想学部を卒業し、アジア太平洋研究家に進んだCさんが挨拶に来た。彼女は私が卒研を指導したので、卒業式では私から学位記を渡すはずであったが、卒業式には来なかった(まだ韓国にいたのだそうだ)。学位記は事務所で受け取ることになるが、卒研の論文は今日私から返した。手土産に栄養ドリンクのようなものをいただいた。先日、修士1年のSさんからも朝鮮人参をいただいたのだが、中国や韓国からの留学生は私のような年配の男性にはこの種のものを手土産にするという慣習があるのだろうか?
春学期、演習「現代人と家族」をお願いしている日大の久保田裕之先生が4限の授業を終えて研究室に来て下さった。お茶とお菓子でおもてなし。しばらくおしゃべりをする。久保田さんは将来を嘱望される若手の家族社会学者だが、出身は早稲田大学第一文学部のロシア文学専修で、学生時代は演劇(脚本)に熱中していたそうだ。卒業後、ICUに学士入学をされ、それから大阪大学の大学院へ進まれて家族社会学の研究を本格的に始められ、2年前に日大の専任になられたばかりである。どうぞ現代人間論系の学生たちをよろしくお願いします。びしびし鍛えてやって下さい。
帰りの電車で歳時記を開く。「花疲れ」という季語があることを知る。
土手につく花見疲れの片手かな 久保より江
座りたるまゝ帯とくや花疲れ 鈴木真砂女
雨だれの誘ふまどろみ花疲れ 大竹きみ江
たとえば先日の人混みの中の目黒川の花見は疲れたけれども、「疲れに浸ることも花時の趣の一つである」と歳時記の編者は書いている。「楽しみの一つ」ではなく「趣の一つ」としたことろがなるほどと思う。それが俳句の精神というものだろう。
7時半、帰宅。
夕食は豚肉と玉ねぎとキャベツの炒め。
深夜、コンビニに買い物に行く。野良猫のなつが私の帰りを出迎えた。なつは頭がよく、私が駅に行くときの道と、コンビニに行くときの道が違うのを知っていて、駅に向かうと当分帰って来ないが、コンビニに向かうとほどなく帰って来ることを知っている。だからコンビニに行く道を私が行くと、途中まで出迎えに来て待っているのだ。ニャンニャンいいながら、私の足元にまとわりついてくる。こういうときは真剣にお腹が減っているのだということを私は知っている。帰宅して、玄関の上がり口に置いてある猫の餌をちょっとあげる。外は寒い。
今日は寝不足だから早く寝ようと思っていたのに、結局、2時ごろまで起きていた。