*「1月15日(日)晴れ」の後半
4時半に研究室を出て、吉祥寺へ。西に向かって走る中央線の車窓からは富士山のシルエットが見える。
5時に吉祥寺駅で妻と合流。
開演時刻(6時)まではまだ間がある。劇場に向かう途中で見かけたカフェで軽食をとることにする。
ホットミルクとサンドウィッチを注文。
サンドウィッチはトーストサンドだっだ。
「櫂スタジオ」に開演15分前に到着。劇団「獣の仕業」の公演はここで行われることが多い。
今日の芝居は「盗聴[The Play]」。第11回公演だ。
「カトリエという名の女がいる。カトリエは固定局用無線機のある家に住み、アマチュア無線を趣味としている。香炉という男が彼女の「犬」として契約し同居している。彼は心臓に病気があり一日一回薬を飲まなければ生きていけない。カトリエの家の近くには永遠という名の女が暮らしている。カトリエとは高校のときからの幼なじみだ。彼女はカトリエの言うことなら何でも聞く。「詩子のこと」があるからだ。/さて、今日もカトリエの無線がある電波を傍受した。それは彼女が最も愛する夕日という名の男、彼の電話の声だ。カトリエは耳を澄ましている。笑っている。しあわせなのか。私には分からない。/そして私の隣には女性がいる。名前は「詩子」-彼女には「悪意」があった。」(パンフレットより)
「私」とは誰のことなのだろう? 登場人物のひとりだろうか。脚本家だろうか。
パンフレットには「本当の悪とはなんだろう?」と題された一文も載っている。
「犯罪を犯したら悪なのだろうか、誰かを傷付けたら悪なのだろうか、何もしないことが一番の悪なのだろうか・・・。/考えて、考えて、そして私の思いつく限りのすべての「悪意」をこの「盗聴」に描いたつもりだ。/この中の誰があなたにとって一番の悪に見えるだろう?/物事に裏表があるように、ある人の美徳が悪意にひっくり返る。誰かの心からの善意が、別の誰かにとっての侮辱になるかもしれない。/だから「盗聴」はよくある、普通の、私たちの暮らしだ。/言葉遣いも指摘な言葉を極力廃した。前作「瓦礫のソフィー」からのカウンターだ。今までの獣の仕業をご覧いただいている方々にはだから、少々驚かれるかも知れない。/しかし描かれている本質はソフィーと同じ、いやソフィーよりも、純粋で美しいものになったと思っている。/身体につては、「日常所作の強調」と「思考と動作の分離」を目差したい。誰かと電話するときの会話の感情ラインとは無関係に別のことをしてしまう私たちの身体。悲しい相談の最中にも足がバタバタとダンスをしてしまうような、そんな―私たちの、いつも通りの、デリカシーのない身体。/「第十一回公演」ついにナンバリングが二桁になった。また新しい挑戦になると思う。/それにしても今回の獣・・・、かなりの、くせ者です。・・・お楽しみに。/皆様のご来場を心よりお待ちしております。」
脚本・演出の立夏、いつになく饒舌だ。ただし、これは後から(芝居を観終わった後で気づいたのだが、「盗聴[The Play]」のサブタイトル(?)になっている[The Play]については直接的には言及されていない。だから私は、「盗聴」や「悪意」という言葉に気をとられて、ヒッチコックや湊かなえやドストエフスキーの作品のことを連想していた。
会場に入ると、すでに舞台上には役者たちがいた。獣の仕業の芝居ではよく使われるやり方で、オブジェのようにたたずんでいるだけでなく、準備運動をすうように体を動かしたり、何かぶつぶつつぶやいたりしている。開場から開演までの間の時間を、劇場の外の日常的世界とこれから始まる演劇的世界を架橋する時間帯として位置付けているわけだ。
舞台中央には「詩子(うたこ)」役の雑賀玲衣。
雑賀玲衣(詩子)の背後には香炉(こうろ)役の中野皓作。
舞台右端奥には永遠(とわ)役のきえると、夕日役の小林龍二。
そして舞台右端前には雨ヶ谷(あまがい)役の田澤遵、舞台左端前にはカトリエ役の手塚優希。
開演の直前、立夏が観客に挨拶し、上演中の諸注意を説明しはじめた。これはいつものことだが、「おやっ?」と思ったのは、「ケータイ電話、PHS、スマートフォン等はマナーモードではなく、電源をお切りください」とお願いしたときに、それに唱和するように、舞台上の役者たちが「電源をお切りください」と呟いたことだ。彼らはまさにこれから始まる物語の世界にすでに没入していると思っていたので、意表を突かれたのだ。これが「くせ者」の片鱗であった。
上演時間は約90分。あっという間の90分であった。音楽と照明の絶妙な効果が観客の集中力を高めた点は特筆されるべきだが、もちろんそのためだけではない。
なるほど、そういうことか、と思った。
何が「なるほど」なのかということ、「盗聴[The Play]」というタイトルの意味についてである。「play」は「芝居」と訳せば間違いではないが、それは言わずもがなのことで、今回の公演に限った話ではない。獣の仕業は劇団なのだから。それをわざわざ表に出したのは、「盗聴」と[The Play]が主題(モチーフ)と方法の関係にあるということをはっきりと自覚し明示するという意図があったのだ。「盗聴」をモチーフにして描かれる人間関係は獣の仕業の芝居をこれまで見続けてきた常連客にはお馴染みの世界、既視感のある世界である。彼らにとって、あるいは脚本家の立夏にとって、青春時代(とくに高校時代)に経験した人間模様は彼らが作り出す世界の根源にあるもの、もしかしたらそれは語りつくせないもので、墓の中までもっていくべきものなのかもしれない。けれどその棺や骨壺の蓋は完全に封印はされておらず、おりおり姿を現してくるものなのだろう。それは創作の原動力でもある。日常の中におりおり姿を現すが、普段は凝視させずやりすごしているものを、物語という虚構の中であえて凝視してみること、なんでそんなことをするのかといえば、ときに何かと真面目に真剣に対峙することを人は欲しているからである。その意味で、獣の仕業の芝居は基本的に「生真面目」なものであった。劇場の外での彼らの日常は、偽りではないものの、夾雑物の多いものであろう。それに比して劇場の中での彼らの芝居はきわめて純度の高いものである。それは長期間の稽古の産物である。その期間は彼らにとって「生きられた時間」である。たった二日間の公演はそれが激しく燃焼する場所である。
痛いほどの生真面目さ。それが獣の仕業の芝居の基調であった。これまでは・・・。
今回の芝居では、そうした「力み」というものがふっと抜ける瞬間があった。たまたまではなく、演出意図によって、余分な力を抜いてしなやかに芝居をしている感じがした。[play]には「芝居」という意味の他に、いや、それ以前に、「遊び」という意味があることに思いが至る。そう、彼らは遊んでいるのである。楽しんでいるのである。そして観客にも楽しんでほしいと願っているのである。日常が「真面目な世界」であるのに対して、芝居は「遊びの世界」である。「盗聴[The Play]」というタイトルは、獣の仕業がこれまで取り組んできた、生真面目な、息苦しいほどに生真面目な主題を、肩の力を抜いて、遊び心をもって、精一杯演じてみせますという宣言だったのである。今日の芝居はコメディーではないが、コメディー的要素を含んでいる。喜怒哀楽、人間のさまざな感情が、芝居という虚構の世界の中で、キラキラと輝いていた。大学の演劇サークルを母体として旗揚げした彼らが、学生演劇的なものから、大人の演劇集団へと変貌していく瞬間に、今日、立ち合ったと私は思った。
終演後、役者たちひとりひとりと言葉を交わしながら、握手をして、写真をとらせてもらった。
手塚優希(カトリエ)
雑賀玲衣(詩子)
田澤遵(雨ヶ谷)
小林龍二(夕日)
きえる(永遠)
中野皓作(香炉)
獣の仕業の変貌は団員ひとりひとりの(大学卒業後の)人生がもたらした果実だが、客演の中野の存在も少なからぬ作用をもたらしていると思われる。
立夏(脚本・演出)
駅に戻る途中にある不思議なたたずまいのレストランで食事をする。
私は焼き茄子のカレードリア、妻は玄米きのこたっぷりドリア。
句会と観劇、二つの遊びの世界を楽しんだ、今日は素敵な一日だった。
9時半ごろ、帰宅。