文化逍遥。

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わたしのレコード棚―ブルース16、Furry Lewis,

2011年06月08日 | わたしのレコード棚
 前回のフランク・ストークスに続きメンフィスで活躍したファリー・ルイスを取り上げる。このブログを始める時はあまり地域にこだわるつもりは無かったのだが、書き続けていく上でやはり関連した地域の人が次々に頭に浮かんでくる。

  ファリー・ルイス(Walter "Furry" Lewis)は1893年ミシッシッピー州グリーンウッドの生まれだが少年の頃にはメンフィスへ移り、その後、南部を回る売薬ショーやミンストレルショーなどで旅をしつつ演奏するようになったらしい。生年について、下のYAZOOのLP解説によると本人は当初1900年と言っていたらしく、『RCAブルースの古典』など古いLPなどにも1900年の生まれとなっているものがある。早い話が、サバを読んだということか。昔のブルースマンの生年が一定しないのは本人の記憶が曖昧なこともあるだろうが、サバを読んだ人もいたらしい。話を戻そう。1916年に列車の事故で足を悪くしてメンフィスに戻り、街角や公園、パーティーなどで演奏していたが、1922年にはメンフィスの衛生局の仕事を得て街の清掃を生活の糧として40年近く続けたという。1927~'29年にかけてはボキャリオンやヴィクターに23曲を録音したが、その後1959年にサム・チャータースにふたたび見出されるまで録音は無い。再発見後は多くの録音や映像を残して、1981年にメンフィスで亡くなっている。88歳で亡くなったのだから、天寿を全うしたと言えるだろう。ライブ録音などを聞くと、終始笑いを絶やさないユーモアあふれるステージで、ソングスターと言うよりエンターテナーに近い要素を多分に持っていたと思われる。


 Yazooの1050。1927~'28年の14曲を収録した名盤。この人のフィンガー・ピッキングは模範的と言ってもいいだろう。聴いていると「うまいなー」と思わず呟いてしまう。


 バイオグラフのBLP―12017。フレッド・マクドウェル(Fred McDowell)とのカップリング・アルバムで、1968年にメンフィスのファリー・ルイスの家で録音された6曲がB面に収められている。A面にはマクドウェルのミシッシッピーの自宅で1969年に収録された7曲が入っている。ジャケットは綿花の集積所の写真と思われる。


 1971年8月、ニューヨークのガスライト(the Gaslight)でのライブ録音で、わたしの愛聴盤の一枚。この時80歳近かったわけで、驚異的な持続力と言える。特にボトルネックを使った曲での音のコントロールは「さすが」と唸らせるものがある。残念なことに、曲によってはかなりチューニングがずれてしまっていて、音がバラバラになってしまっている。チューニングをオープンに変える時に、ショーマンシップを発揮して喋りながらやっているもんだからピッタリと合わないようだ。それでも本人はあまり気にせずに弾いていて、ヴォーカルにはくるいも無いのが不思議なところ。
 なお、ウォード・シェイファー(Ward Shaffer)という録音時23歳のギターリストがセカンド・ギターやヴォーカル、曲の解説などのサポートを数曲でつとめている。LPの解説によると、この人はルイスの弟子(protege)となっている。80歳近くにもなれば、サポートしてくれる人が必要になるのも無理は無い。

 ファリー・ルイスは、W・C・ハンディー(W.C.Handy 1873Ala.~1958N.Y)のバンドに参加していたこともあるという。[セント・ルイス・ブルース]で有名なハンディーは、音楽的素養がありブルースに新たな発想を加えてオリジナリティーに富んだ曲をたくさん作り、バンドを率いて演奏活動をし楽譜を出版した。彼の曲にはマイナー・コードをたくみに使ったものや転調するものもある。これらはクラッシックの要素を含むので「クラッシック・ブルース」と言われていて、普通に言う「ブルース」とは区別されて扱われている。ブルースマンというと、ひたすらスリー・コードのブルースを歌う「ストレート・ミュージシャン」というイメージが強いが、ルイスのようにクラッシック・ブルースなど様々な音楽に接してユーモアに富んだ演奏が出来る人もいたことは大切に記憶しておきたいものである。

Handy
 これが、ハンディーの譜面集。ちなみに、わたしは譜面を読むのが大の苦手で、中学で習った程度の読解力しかない。



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