1974年11月、高校3年だったわたしは、当時ブームになっていたこともあってブルースに興味を持ち、第1回ブルース・フェスに行くつもりだった。しかし、当時の国鉄(現JR)がストを打ったため断念せざるを得なかった。この時来日したのが、ロバート・ロックウッド・ジュニア&エイシスとスリーピー・ジョン・エステスだった。ロックウッドはその後も3回来日して生の演奏に接することが出来たが、エステスは'77年に亡くなってしまうので、ついに生の演奏を聞く機会はなくなった。もっとも、高校生だった自分が聞いてどこまでエステスの音楽を理解できたかは疑問だ。が、今思い起こしても残念ではある。
スリーピー・ジョン・エステス(Sleepy John Estes,本名John Adam Estes)の生年もはっきりしないが、来日した時の書類には1900年になっていたということなのでそれを取っておく。場所は、テネシー州のリプレー(Ripley)という所らしいが、育ったのは同州のブラウンズヴィルで、少年の頃に遊んでいて小石が右目に当たり失明。後に、左眼も徐々に視力を失い'62年に↓3枚目デルマークに録音した時には完全に失明していたという。'77年に亡くなったのも、やはりブラウンズヴィルだった。レコーディング・キャリアは1929年のビクターからで、デッカやブルーバードに吹き込みを続け、後にスタンダードになった名曲[Some Day Baby ,aka, Worried Life Blues]などを残している。
このブログを書くにあたり、エステスのLPを久しぶりに聴き直した。本当に久しぶりだった。レコードの表面にはカビがうっすらと滲んでいた。それは、エステスが自分にとって軽い存在だからではなく、むしろ逆で、聴き込むのにエネルギーを必要としていたからだった。聴く前から疲れてしまっていた、と言ってもいい。それでも、レコード盤のカビをバランスウォッシャーできれいに拭き取り、針を落としてみた。すると、そこから流れてきたブルースは、以前聴いたものとは全く違う音楽ではないかと思われるほどリズミックで楽しささえ感じるものだった。若かった自分は、宣伝文句に乗せられていたのかもしれない。いわく、「涙なくしては聞けない悲痛なブルース」。でも、それは表面的な聞き方だ。何曲かレコードに合わせて音を取ってみたが、しっかりしたリズム、オリジナリティーに富む音使い、そして何より言葉のメロディーに対するノリがすばらしい。「まいったなあ」、と言うのが正直な感想だ。歳を重ねなければ、分からないことも多いようだ。
WOLF(オーストリー)のWSE129。A面にサン・ボンズ(Son Bonds1909~1947)ヴォーカルとギター、ハミー・ニクソン(次回予定)のハーモニカで、'34年録音10曲。B面にボンズとエステスで、38年2曲と'41年の8曲を収録。
メンフィスのレーベル「サンSUN」に残されていた音源をP-vineが編集・配給したPLP-347『Memphis Country Blues In The 50's』。以前は'41年録音を最後にエステス死亡説まで流れ、'62年に再発見されるまで極貧の中でギターすら持っていなかった、というようなことも言われていた。が、それはレコード会社によるイメージ作り、悪く言えば誇大広告だったようだ。現に、このLPには、'52年にサンに残した4曲が収められている。さらに、小出斉氏の解説によれば、'47年にもシカゴのオラ・ネールにも吹き込んでいたという。細々とでもギターを弾いていなければ、'60年代になって音楽活動を再開して、あんなに良い演奏を出来たとは思えない。ジャケットの写真はエステスとその妻を’62年に撮影となっている。おそらくは、メンフィス郊外にあったというエステスの家の前で取られたのもと思われる。子どもも写っているが、エステスの子かどうかは不明。しかし、しっかりと子どもと目を合わせている様にも見える。
ここで、エステスの使っているのはエレキギターのようだ。彼は、独特の音使いをする人で、コードの抑え方にも他のブルースマンにはない独自のものがあるように聞こえる。わたしも、何度かコピーを試みているが、なかなかエステスの音に近づけない。教則本などにエステスの演奏が取り上げられることもないようだが、彼の演奏にもっと注目されて良いように思う。エステスは言葉も豊富で、音程もしっかりした美声のヴォーカルリストでもある。そのエステス特有の繊細な演奏が、エレキギターを使っているこのLPに収められた録音で聴くことが出来る。
これが日本のブルース・ブームに火を付けた、当時のトリオ・レコードから出た『The Legend Of Sleepy John Estes』。デルマーク原盤No.DS-603。録音は'62年と思われるが、わたしが手に入れたのは'73年頃と記憶している。当時のヒットチャートにランクインされた程売れた。ハーモニカに旧友ハミー・ニクソン、ピアノにジャズピアニストでたまたまそこに居合わせて4曲セッションに加わったというジョン・パーカー、ベースにエド・ウィルキンソン。
こちらのLPは、上のLPの続編とも言えるデルマークDS-613。詳しい録音データはクレジットされていないが、1960年代のセッションを集めたものらしい。
(2015年3月追記)
先日、久々に千葉のタワーレコードに行って、数少なくなったブルースの棚を見ていたらスリーピー・ジョン・エステスSleepy John Estes&ハミー・ニクソンHammie Nixonの1974年と1976年の日本公演20曲を収録したCDがP-VINEから出ていたので買い求めた。記憶では、当時はDELMARKレーベルでトリオからLPレコードが出ていて、買おうと思っているうちにいつの間にか無くなってしまった。その後、中古のレコード店などでかなりな高値で売られていた。優歌団との共演した録音も、もう聞くことが出来ないかな、と思っていたが4曲このCDに入っている。
P-vine,PCD-24342,
発売されたのは、昨年の2014年。40年近く前の録音だが、当時のブルースにかける聴き手の熱い思いが伝わってくる。エステスのヴォーカルは、良く声が通り年齢を感じさせないし、ニクソンはハーモニカもヴォーカルも指折りのミュージシャンと確信される録音だ。
エステスは、この1976年12月のコンサートの半年後に亡くなり、ニクソンはその後も活動を続けた後1984年に亡くなった。
さらに残念なことだが、優歌団のドラマーだった島田和夫氏(ジャケットの写真エステスの後方サングラスの人)も2012年に亡くなっている。
スリーピー・ジョン・エステス(Sleepy John Estes,本名John Adam Estes)の生年もはっきりしないが、来日した時の書類には1900年になっていたということなのでそれを取っておく。場所は、テネシー州のリプレー(Ripley)という所らしいが、育ったのは同州のブラウンズヴィルで、少年の頃に遊んでいて小石が右目に当たり失明。後に、左眼も徐々に視力を失い'62年に↓3枚目デルマークに録音した時には完全に失明していたという。'77年に亡くなったのも、やはりブラウンズヴィルだった。レコーディング・キャリアは1929年のビクターからで、デッカやブルーバードに吹き込みを続け、後にスタンダードになった名曲[Some Day Baby ,aka, Worried Life Blues]などを残している。
このブログを書くにあたり、エステスのLPを久しぶりに聴き直した。本当に久しぶりだった。レコードの表面にはカビがうっすらと滲んでいた。それは、エステスが自分にとって軽い存在だからではなく、むしろ逆で、聴き込むのにエネルギーを必要としていたからだった。聴く前から疲れてしまっていた、と言ってもいい。それでも、レコード盤のカビをバランスウォッシャーできれいに拭き取り、針を落としてみた。すると、そこから流れてきたブルースは、以前聴いたものとは全く違う音楽ではないかと思われるほどリズミックで楽しささえ感じるものだった。若かった自分は、宣伝文句に乗せられていたのかもしれない。いわく、「涙なくしては聞けない悲痛なブルース」。でも、それは表面的な聞き方だ。何曲かレコードに合わせて音を取ってみたが、しっかりしたリズム、オリジナリティーに富む音使い、そして何より言葉のメロディーに対するノリがすばらしい。「まいったなあ」、と言うのが正直な感想だ。歳を重ねなければ、分からないことも多いようだ。
WOLF(オーストリー)のWSE129。A面にサン・ボンズ(Son Bonds1909~1947)ヴォーカルとギター、ハミー・ニクソン(次回予定)のハーモニカで、'34年録音10曲。B面にボンズとエステスで、38年2曲と'41年の8曲を収録。
メンフィスのレーベル「サンSUN」に残されていた音源をP-vineが編集・配給したPLP-347『Memphis Country Blues In The 50's』。以前は'41年録音を最後にエステス死亡説まで流れ、'62年に再発見されるまで極貧の中でギターすら持っていなかった、というようなことも言われていた。が、それはレコード会社によるイメージ作り、悪く言えば誇大広告だったようだ。現に、このLPには、'52年にサンに残した4曲が収められている。さらに、小出斉氏の解説によれば、'47年にもシカゴのオラ・ネールにも吹き込んでいたという。細々とでもギターを弾いていなければ、'60年代になって音楽活動を再開して、あんなに良い演奏を出来たとは思えない。ジャケットの写真はエステスとその妻を’62年に撮影となっている。おそらくは、メンフィス郊外にあったというエステスの家の前で取られたのもと思われる。子どもも写っているが、エステスの子かどうかは不明。しかし、しっかりと子どもと目を合わせている様にも見える。
ここで、エステスの使っているのはエレキギターのようだ。彼は、独特の音使いをする人で、コードの抑え方にも他のブルースマンにはない独自のものがあるように聞こえる。わたしも、何度かコピーを試みているが、なかなかエステスの音に近づけない。教則本などにエステスの演奏が取り上げられることもないようだが、彼の演奏にもっと注目されて良いように思う。エステスは言葉も豊富で、音程もしっかりした美声のヴォーカルリストでもある。そのエステス特有の繊細な演奏が、エレキギターを使っているこのLPに収められた録音で聴くことが出来る。
これが日本のブルース・ブームに火を付けた、当時のトリオ・レコードから出た『The Legend Of Sleepy John Estes』。デルマーク原盤No.DS-603。録音は'62年と思われるが、わたしが手に入れたのは'73年頃と記憶している。当時のヒットチャートにランクインされた程売れた。ハーモニカに旧友ハミー・ニクソン、ピアノにジャズピアニストでたまたまそこに居合わせて4曲セッションに加わったというジョン・パーカー、ベースにエド・ウィルキンソン。
こちらのLPは、上のLPの続編とも言えるデルマークDS-613。詳しい録音データはクレジットされていないが、1960年代のセッションを集めたものらしい。
(2015年3月追記)
先日、久々に千葉のタワーレコードに行って、数少なくなったブルースの棚を見ていたらスリーピー・ジョン・エステスSleepy John Estes&ハミー・ニクソンHammie Nixonの1974年と1976年の日本公演20曲を収録したCDがP-VINEから出ていたので買い求めた。記憶では、当時はDELMARKレーベルでトリオからLPレコードが出ていて、買おうと思っているうちにいつの間にか無くなってしまった。その後、中古のレコード店などでかなりな高値で売られていた。優歌団との共演した録音も、もう聞くことが出来ないかな、と思っていたが4曲このCDに入っている。
P-vine,PCD-24342,
発売されたのは、昨年の2014年。40年近く前の録音だが、当時のブルースにかける聴き手の熱い思いが伝わってくる。エステスのヴォーカルは、良く声が通り年齢を感じさせないし、ニクソンはハーモニカもヴォーカルも指折りのミュージシャンと確信される録音だ。
エステスは、この1976年12月のコンサートの半年後に亡くなり、ニクソンはその後も活動を続けた後1984年に亡くなった。
さらに残念なことだが、優歌団のドラマーだった島田和夫氏(ジャケットの写真エステスの後方サングラスの人)も2012年に亡くなっている。