King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

もともとそれ虚構ですから

2010年04月28日 10時42分27秒 | 日々のこと
昨日の日経夕刊の文化欄の1Q84の書評は強烈でした。

相変わらず、最初はべた褒めの批評家の書評を並べて
絶賛の様相ですがその後すぐに反面として、まるきり
内容がないと切り捨てた書評を紹介してまだあるつづき
があるのを予想して終わっています。

私はもう本を買ってあるし、どう批評されようと読む事に
変わりはないのですが、これを読んでから買おうかどうしようか
と思う人には強烈な内容かもしれません。

というのも、後半部分の反対的な見方をする人の書評には
中味がないという身も蓋もない展開で、青豆の復活とか
粗筋もばらしてしまい、おいおい俺はこれから読むんだぜ
という気がしましたし、中味がないというのは虚構という
世界なのを忘れていないですかということです。

この虚構を愉しむという世界を考えたときに、同じく
日経朝刊で今連載されている新聞小説をすぐ思い浮かべ
ました。

韃靼の馬という時代劇なのですが、内容は知られていない
歴史発見のような趣もあり、中々興味深いのです。

今は、朝鮮の役人を連れて大阪の町を案内するシーンで
すが、そこで朝鮮や中国ではない経済活動を大阪の町で
みて驚くという展開なのです。

公式に大阪の米の先物取引が認められたのは1730年で、
これは世界的に見ても先進的なシステムだったことは
間違いなく、それを評価する動きも現代に活かす動きも
ないわけですが、日本では米国の占領時に廃止し、以後
米の先物は行われていないのです。

それを海外の人が見て驚き、そして見てはいけないものを
見てしまったと恐れおののくのです。そして、その感想は
現代の中国や朝鮮が共産主義に変わった今に通じるように
表現されているように感じるのです。

日本人の柔軟な思想と進んだ計算能力と理論が生んだ
貨幣経済的なリスクヘッジをすでに実務的に展開したという
驚きとともに、米という特殊な貨幣的な働きをした穀物が
持つ自然の影響を受ける作物特有のリスクを取り除く努力と
知恵が特殊な市場を作り出したという創造力を日本は誇る
べきかもしれないと思います。
コメント
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