あわただしく出かけたので、いい加減に終わってしまい
ました。
小乗は、自分の修行だけ。
大乗は他人への奉仕。
という自己の完成と他者への奉仕という教えとしての
形で分離しているようであり、もともと仏陀が持って
いたものは同じであり、衆生はお寺さんに奉仕する事で
救われるという形や、その後出てきた念仏を唱えたら
誰でも成仏できるとか、拝めばかなうという宗教などと
変化していってしまったわけです。
キリスト教やイスラム教が永遠の命をテーマとして
いるのに対して、仏教は全てを空と理解することで
苦しみから解放されるとするところがまるで違うわけ
で、そもそものテーマが違うのに同じものを比べるかの
ような議論も意味がないと思われます。
しかし、人々は何らかの心のよりどころとして宗教を
求め、祖先からの知恵としてその教えに従います。
日本人の多くは、宗教が神と民の契約だとは知りません。
仏教は、自分が救われるかという個人的な問題を扱うのに
世の中全ての生き物への愛を要求するなどこれまた他の
宗教と一線を画します。
それでも、答えとしての全ては空というものがありながら
解脱というのはかなわないのかもしれません。
ました。
小乗は、自分の修行だけ。
大乗は他人への奉仕。
という自己の完成と他者への奉仕という教えとしての
形で分離しているようであり、もともと仏陀が持って
いたものは同じであり、衆生はお寺さんに奉仕する事で
救われるという形や、その後出てきた念仏を唱えたら
誰でも成仏できるとか、拝めばかなうという宗教などと
変化していってしまったわけです。
キリスト教やイスラム教が永遠の命をテーマとして
いるのに対して、仏教は全てを空と理解することで
苦しみから解放されるとするところがまるで違うわけ
で、そもそものテーマが違うのに同じものを比べるかの
ような議論も意味がないと思われます。
しかし、人々は何らかの心のよりどころとして宗教を
求め、祖先からの知恵としてその教えに従います。
日本人の多くは、宗教が神と民の契約だとは知りません。
仏教は、自分が救われるかという個人的な問題を扱うのに
世の中全ての生き物への愛を要求するなどこれまた他の
宗教と一線を画します。
それでも、答えとしての全ては空というものがありながら
解脱というのはかなわないのかもしれません。