King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

もう少し明確に

2010年07月27日 13時56分13秒 | 日々のこと
あわただしく出かけたので、いい加減に終わってしまい
ました。

小乗は、自分の修行だけ。

大乗は他人への奉仕。

という自己の完成と他者への奉仕という教えとしての
形で分離しているようであり、もともと仏陀が持って
いたものは同じであり、衆生はお寺さんに奉仕する事で
救われるという形や、その後出てきた念仏を唱えたら
誰でも成仏できるとか、拝めばかなうという宗教などと
変化していってしまったわけです。

キリスト教やイスラム教が永遠の命をテーマとして
いるのに対して、仏教は全てを空と理解することで
苦しみから解放されるとするところがまるで違うわけ
で、そもそものテーマが違うのに同じものを比べるかの
ような議論も意味がないと思われます。

しかし、人々は何らかの心のよりどころとして宗教を
求め、祖先からの知恵としてその教えに従います。

日本人の多くは、宗教が神と民の契約だとは知りません。

仏教は、自分が救われるかという個人的な問題を扱うのに
世の中全ての生き物への愛を要求するなどこれまた他の
宗教と一線を画します。

それでも、答えとしての全ては空というものがありながら
解脱というのはかなわないのかもしれません。

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小乗と大乗の違い

2010年07月27日 10時25分47秒 | 日々のこと
今日は父の命日なので墓参りです。

いつもこの焼けつくような日になると父の死を
色々考えます。

もちろん人生の事も。

そして、お墓とお寺の事も考えていたら、ある
事に思い至りました。

仏教で言う涅槃とはということなのですが、
釈迦にしても結局死を持って最後に悟りの最終形を
迎えたということなら、誰も悟れないのでは。

もしからしたら、死んだら悟りが訪れるのかという
隘路へ入り込んでしまいます。

話がそれたついでにそもそも仏教の目的は何と
考えると昔聞いた小乗、大乗仏教という分かれ道
の事を思い出します。

今まで読んできた本や人に聞いたところでは、その
違いというのはたいした意味も無く、日本にはもともと
大乗仏教が伝わったので、本物の仏教伝わっていない
のでは無いかとも考えていました。

歴史かなんかの授業で先生が話した仏教の伝播は、
法の伝授であり、国の運営のもともとを日本は仏教と
いう戒律の中に思想体系化して、国を平治したのです。

その時、仏教が小乗と大乗に分かれて日本には漢から
大乗が伝わり、それも道教や儒教などの宗教と習合し
そもそもの目的である悟るための個人の修行の道が
いつの間にか民を救うという面ばかりが強調されて
いるものだと思っていました。

昨日調べてみると釈迦が死亡後、100年くらいの間で
すごい変化があり、枝分かれと新たな発明などがあり、
釈迦の不足を補う行動がその後も続いた結果今にも
多くの枝分かれができたままだという結論に伝わって
きていると思います。

私の今までの考えの間違いとして、お互いを批判して
枝分かれした仏教は結局片肺で不完全のままで目的
達成にいたらないのではないかと思っていたことです。

一般の考え方では、宗教は死んだときにお世話になるもの
として、お寺とのお付き合いもその程度というのが一般
的であり、何かしらの宗教行動をする方が特殊というの
が普通です。

それが大乗仏教のお寺にお任せということだと思って
いましたが、お寺だけでできるものが仏教上の修行でも
悟りに至る道でもなく、日本はそんなのでいいのという
感じです。
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