King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

宇都宮美術館の漏らした事

2010年07月26日 10時04分25秒 | 日々のこと
ここはきれいな町並みの大型分譲地の奥に
緑に囲まれた佇まいで、ゆったりと敷地の
中に計算されたアプローチ道が配置され、
名画を見るという雰囲気が増長される構造に
なっているようです。

途中にある彫刻が妙に既視感があり、どこか
で必ず見ているか触った感じがします。

着いた時にすでに1時だったので先に美術館の
レストランで食事をしたのですが、ここがひどい
もんでした。

味や雰囲気の前に回しているスタッフの対応が
ひどく、たいして混んでもいないのに待たされて
出てくる料理が中々出てこなくて味以前にもう
うんざりな感じです。

これでここの美術館の体験も一日ひどいものという
印象に終わるかと思いましたが、やはり名画に浸る
というのは精神の浄化作用があり、いやなものも
忘れさすことになりました。

昔から絵というのは、その人の精神風景が反映され
必ず宗教的な色が映し出されるのですが、近代絵画や
日本の作家にはそういう精神背景がまったく無く、
これがまた不思議な感覚になり、誰かの真似か
何かの影響を受けたことしか伝わらなかったりします。

しかし、それがマグリットの絵と対比するとまた違う
意味が浮かび上がってくるという面白い体験もしました。

そう今までは美に対して絶対的なものやその場刹那の
ぎりぎりなものを追求しそれの極地を見たいという欲求
の追求の果てに見られるものだとばかり思っていたもの
がマグリットの絵ではするりとかわされたようなイメージ
なのです。

ジャコメッティにも通じる形作る事で破壊する、破壊した
事により新たな創造があるそんなイメージです。

日本では余り絵画鑑賞の際に宗教的な解説や精神背景を
されず、技術的な解説ばかりに終始しているために語るべき
事には踏み込めないそんな美術論ばかりです。

それは見る側に精神的な背景がないと語れないことであり、
自我表現としての絵画から自我を超越したものを表現しよう
とした抽象絵画以上の表現まで、確実に見ることより
自分の自我を確認する作業から始まり、宇宙の深さまで
探るような作業に至る、新たな空間を知る作業に違い
ないのです。

宇宙の果てまでも見る高度な技術を持っていても人類は
いまだ宇宙の構造を知る事も無く、誕生や構造を示す
万物理論もできていないのにもかかわず、精神史上は
すでに全てを理解している人が現れ、仏教では全ては
空であるとそれを教えるものもあり、禅ではひたすら
丸を描いたりしてそれを表しています。

海外にそれ以上の世界観を持った絵があるでしょうか。

海外に禅が無いから禅美術もないのに、思索を促す絵は
たくさんあるという面白さ。

ジャンルは違っても到達しているところは同じなのかも
しれません。

ただ、それは見る側に同じような思索をする力や経験が
必要なのかもしれません。
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漏らした事

2010年07月26日 09時12分42秒 | 日々のこと
昨日のドライブでの事、羽生から東北高速道に
のり、羽生PAに寄りました。

ここには、私の恒例パーキングでてんぷらうどん
を食すという趣味のためです。

ここは味が過去最高のレベルであると記憶しており、
今回もしっかり寄りました。

しかし、ここはすっかりリニューアルされて近代的な
設備に変わっていて、フードコート形式の食事処には
よく見る名物どんぶりに最近多いテレビの取材があった
という掲示があります。

私の趣味は、昔ながらのトラックの運ちゃんが寄り
近所のおばあちゃんが手作りの汁で食すてんぷら
うどんです。そんな手作り感のあるものはもはや
なくなりつつあり、どこでも同じような冷凍の麺と
出来合いの汁になってきつつあります。

もはや私の趣味も終焉を迎えるのか。

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