King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

サッカーワールドカップに触れとくと

2014年06月25日 15時09分57秒 | 日々のこと
2010年南アフリカ大会で日本は予選リーグをE組
オランダ、日本、カメルーン、で戦い、初めてトーナメントに進出。
日本対カメルーン1-0、オランダ対日本1-0、デンマーク対日本、1-3
トーナメントパラグアイ対日本0-0PKで負けという実に惜しい終わり方で
これは、次はよいよベスト8だと臨んだ今年ブラジル大会。

日本はグループC組、日本、ギリシャ、コロンビア、コートジボアール
日本対コートジボアール1-2、日本対ギリシャ0-0、日本対コロンビア1-4
で予選敗退でした。

予選を勝ち抜いたのは全てに勝利したコロンビアとギリシャとコートジボアール
は引き分けで以上でコートジボアール予選進出だったのに、最後
アデショナルタイムにペナルティキックにより2-1となり、ギリシャが進出
という事になりました。

大会ごとに着実に実力をつけていく日本という印象を巧みに植えつけられて
いるかのようにサッカー熱は年々上がる一方で、当然わざわざ現地に赴いて
まで応援するという人も増えています。

それに水を差すかのような今回の予選敗退は改めて世界の中の実力を
気付かせたという事ではないでしょうか。

他の組はいくつもの死の組といわれる組み合わせの中で、まさか予選は
突破してくれると皆期待していたところがまさかの最階位になってしまう
とは。でも、試合を見ているとスピードとか当たりとか子供と大人の差が
あると見れる圧倒的な実力差が垣間見れてまあそうだろうなあという感じ。

世間があまりに熱中しているもののただ騒いでいるだけでつい内容は忘れて
しまうので、忘れないように書いておきました。
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覚醒前夜

2014年06月25日 10時21分45秒 | 珈琲
当店に最初に訪れる方には私が必ずする質問と
いうのも最近は皆知っているようで、最近は色々な
答えが返ってくるのです。

ひょんなことからこのいつも必ず同じ答えが返ってくる
わけを知ってしまったような事件がありました。

私がレギュラーコーヒーの洗礼を受けたのは小学生の
頃でした。

さらにその味について色々知ったのは20代の頃で
若くて勢いがあるときにはコーヒーだ晩酌だとこだわるより
何か人と接している時間とその繁華な行きかいにばかり
気を取られ目の前の大事な時間など思いもしない。自分を
見つめ自分の中の宇宙と目の前にある物と対峙しそこにある
流れに対する自覚すらないのです。

しかし、変化は突如襲ってくるのです。

いつも飲んでいたインスタントコーヒーがとてもまずくて飲め
なくなってくるのです。

かつてキャンプの時飲んだあのMJBのコーヒーを飲んで試して
みるとこれも昔感じたほどの味ではないことにきずくのです。

つまりは新鮮な豆で淹れた珈琲を飲みつけるというただそれ
だけ。

基準となる味を知るとやっと次にあるさらなる味に気が付くのです。

これを経験しないと未だに何でも飲めて別に不満がないという
状況で、私のどんな珈琲がお好みですかという問いに酸味の
ないものがいいというあのいつものフレーズにつながるのです。

つまりは、まだ新鮮な豆を飲みつけて酸味と劣化したコーヒーの差を
知らないというただそれだけのことなんだなあとつくづく気が付くのです。

スペシャルでもグルメでもない一般的なその国の最高水準の豆。

ブラジルならサントスNO2、コロンビアならスプレモ、グアテマラなら
SHB、ニカラグアやメキシコはSHG、ジャマイカNO1、ドミニカはAA、
インドネシアG1それぞれ基準も呼び名も違いますが一級品には
違いません。

そもそものその味を知れば、酸味が苦手という話にはならないし、
劣化した味もインスタントも飲めるということにはなりません。

珈琲の味を覚えていないという単純なことですがまだそこに
たどりついていないのだということです。

この根底には町の喫茶店には未だにひどい味のものがでて
くるし、ホテルや旅館に泊まってもレストランで最後のコーヒーも
煮詰まったようなものが出てきたり、いいものを出そうという観念が
欠落しているのです。

例えばそれが米だとどうでしょうか。

普通の町の食堂でも、米だけはコシヒカリだったりそこで手に入る
最高の品種のものを使い、昔あったような標準米というものは
使わないというのが不文律でした。

いまや早い安いという食品を提供するサービスがまかり通り、
必ずしも料理屋で出すコメがいい米というのは通じなくなりつつ
ありますが、それでもそれは人が気が付くことであり、米には
それを許さない味覚の監視が働いているのに対し、コーヒーに
ついてはそれがないのです。

それにはむかしから料理屋などで提供するお茶や水は無料であり、
無料なものは自分でサービスするというお茶や水はセルフサービス
というあまり顧みられなくなるもので、お茶こそぴんから切の世界で
セルフで提供されているお茶はただ、緑色が付いたもので、その
となりではペットボトルで150円が売っているという変な世界になって
いて、珈琲は常備してなくてもどの家庭でも緑茶はあるのでしょう。

果たしてそのお茶は食堂の給茶機のインスタント茶と比べてどう
でしょうか。

私は給茶機のインスタント茶も好きではありません。

人が訪ねてくると今でもお茶が供せられます。

おもてなしの心意気やお客様の格でも供するものに変化がある
でしょう。

それもおもてなす心があってもちっとも最上級の意味になって
いないし、こんなものであしらわれたと感じてしまうようなことに
なってしまうのはおもてなす人の知の貧困さも露呈することに
もなります。

しかし、その逆はあまりないようにも思われます。

ただ高いものを供すればもてなしになるというものでもないと
いう事にこれは繋がり、もはやこれはそれぞれの覚醒を促す
しかないという事だと思います。

まず酸味が嫌いだという方はまだ珈琲の魅力に気が付いて
ないのですよと言い続けるしかないのてす。いやそれだけかは
また次の考察としてみます。
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