今年の三月四月にスキーに行けなかったのはものすごい残念な事でした。
昨年同様今年も三月に毎週のように法事とか葬式とかが重なり、スケジュール的に
厳しかったことが原因としてきましたが、それは昨年も全く同様だったのに
昨年はその間を縫い毎週のように出かけていたことを思うとこの差はなんだったのかと
思わずにはいられないのです。
そこで最近八方尾根のことを思い出すという展開になります。
スキーTVでも今年映像が流れ、昨年私が行った時にも一番上の山荘の所からさらに歩いて
登っていく人はいたのですが、帰ってからそのルートとかコースを調べてもたいして面白い
物ではなさそうだったと思ったそのコースを丸山貴雄がスキーで登って行って滑走した映像を
みたら矢鱈山岳的なコースで日本のゲレンデではないような迫力あるスキーシーンでびっくり
しました。
昨年裏黒菱なるコースを滑ったり今までにない面を発見をしたものの、四月の八方はもう外国人も
さり、年寄りがコブ斜面の練習に来ると言う所に変わり、入り口にダブルブラックダイヤモンドの表記が
あるものの別に大した困難も斜度もあるわけでなく、ごみが多く板が傷つくだけという感じしかしません
でした。
ところが丸山貴雄が滑ったシーンや300名山の田中陽希が滑ったシーンをみるとなんだかゲレンデスキーの
ばからしさをつくづく感じさせるのでした。
特に今の時期、ふとしたことで動画サイトを覗くとビデオのおすすめリストに並ぶのが殆どスキーシーンの
もので、特に志賀の何々コースを滑ってみたとかいう素人がヘルメットに付けたカメラで前走者を追跡した
だけの映像を見られます。
最初は今年は三月四月にスキーに行けなかったので、ただああいいなあという事で見ていましたが、
一つ気になることが出てきました。それは滑走者のスキー技術です。スキーTVのようなデモが滑るので
もない普通のおじさんが滑っているものは見ているうちに自分もこんな感じなのかという事をどうしても
思ってしまいます。
自分はこんなことをやるために毎年スキーに行くのだろうかと考えてしまうのです。
そして、滑っていたスキーヤーが今年で70とか80ですと紹介があり、そんなものが80万回とか再生されている
のをみると需要があるのかというまた不思議な世界に感じるのでした。
今年のスキーはいつも猛吹雪の中滑るような感じであっという間に終わり、田中陽希も年寄のユーチューバーも
実に良い天気の中山を堪能したという感じに見受けられ自分は何かつらい経験や困難な状況を味わいに出かけて
いたのかというのも感じたり、スキーは楽しいのかという事まで考え今後続けるのだろうかとかその存続まで
考える事態になったりします。
それはそもそも本白根が噴火して火山ロープウェイが廃止されその上のコースもあっさりと廃止となり、今まで
お気に入りのさらさらパウダーももう味わえないという事がひとつ原因になっています。
草津がだめでも八方尾根や志賀、斑尾、野沢温泉と雪質のいいところはあり、何もスキーがだめになったわけではない
のにこれは大きな問題です。というのは、今年の三月にも八方や志賀に行く計画をした時、その両方とも昨年も滑ったと
いう事が原因で行くのを躊躇したのです。
もはやパウダーの時期ではないし、ひたすらコブを滑りに高速道路を使いまた昨年と同じことをすることを良しと
思えなかったのです。
それがアルツ磐梯や猫魔のようにまだ行ったことがないというとまた話は別ですが、そうチャンスがこれからなくなる中で
同じことを繰り返すという気になれず、いつもならまだまだ続けるスキーに行かなかったというのは私には何か将来に
禍根を残す行動だったのです。
人生は短いのだから同じようなことをしていてはいけないという他人の人生訓はつい繰り返し私の中でうるさく鳴り響く
のでした。
何か新しいことに挑戦したり、新境地を開拓したりしなければいけないという気持ちにさせるのです。
そんな中ひとつの変化がありました。これは今年の四月に来た免許更新のはがきによりもたらされました。
私は大型免許もあるので、更新の時に深視力のテストもあります。これが年齢でクリアするのが憂鬱でした。
五年前には簡単に通過したものが次回は年齢で衰えて更新が難しいかもしれないと思ったのです。
ですから普通ならせっかちな性格からハガキが来たら直ぐに試験を受けに行くのに今回は先延ばしにして
ぎりぎりまで行かなかったのです。それ程加齢に敏感になったのも目が悪くなっていることや耳が聞こえにくくなっている
という自覚とそれにあがなおうとする気持ちからです。特に目は暗くなると見えづらくなったり小さい字が見えなくなり、
読書するのも苦労して読書時間も減っていました。それでも裸眼で新聞を読んだり本を読んだりしてなるべくメガネは
掛けずに老化に抵抗する気持ちでいました。
そうすると細かい字が何だか判時できず、文章の流れからあああの字かと推理して読むようになっていて本を読んで
直ぐ遠くをみたりするとぼやけてしばらくピントが合わないというようになりました。それでもこれで眼鏡をしたら
どんどん目が悪くなり目の筋力も使わないと衰えるとパソコンも本も眼鏡を使わずにいました。ところが、ふと眼鏡屋で
眼鏡をしたら今までより驚くほど本がくっきりと見えびっくりしたのです。テレビで宣伝している何とかルーペの値段の
十分の一の値段でそれより良く見えるのです。
それから読書はその眼鏡をするようになり、さらにびっくりしたのは今まで裸眼で本を読んでテレビなどの少し離れたものを見ると
ぼやけて見えてしまうという現象もなくなったのです。つまり、眼鏡で本を読み裸眼でテレビを見てもどちらもピントが合うのです。
前は本を読み続けると目が痛くなり、本を読み続けることも苦難でしたが、眼鏡はそれを解消するばかりか前と同様の速度で本も
読めるようになり眼鏡をはずして直ぐ同じにピントも合うので不便もありません。
裸眼で年寄りになりもう本も読めなくなっていると思ったら眼鏡をかけただけで普通に本を読んだり運転したりと全く問題ないと
なると免許更新も難なく更新でき前の時と同じように普通にパスしてまた五年後もできそうな気がしました。
一冊の本を読むのに一年もかかっていたのが二日で一冊に変わり昔と同じようにできると感じ今まで感じていたことは何だった
のだろうかと思うのでした。
つまり年を取ると少しづつ衰えていくというのは老化で誰も回避できないことであり、それはほんの少しづつ起こり、
自分がかつて思ったようにガクッと衰えたり年寄りだからできないという事が増えるのではなく、少しづつ終わりに向かうのだと
いうことです。これは大きな収穫でいまならまだ木に登って庭の木を切ったりできるし、昔と同様スキーもバスケットもできる
のでできるうちにやらなくてはいけないという事です。多くの同年代は既にスキーもバスケットも辞めており、すると
もう昔を思い出してまたやり出すという事もおそらくないのであり、これは能力の喪失に違いありません。
私の毎日10Kランももう年だからいいやとなったらもう二度と走ることはなくなってしまうのでしょう。
つまりスキーやバスケットやランニングを続ける以上終わりでないという事です。
今年感じた八方は昨年滑ったからという感覚はこれが草津の本白根だったらというのもあり、複雑な問題になりますが、
解決の方法は色々あるのです。眼鏡をかけることで解ったことです。