King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

曇り空とユリの花

2019年07月11日 09時12分07秒 | 珈琲

ちょっと気が付いてみるともう今年も半分すぎあと数カ月でまた

雪の季節です。

なんと早いことよと危ぶむ心と朝のあわただしい時の時間の無さや

豆焙煎中の刻々と変わる釜の状況と過ぎる時間の緊張などと時々の

時間の感じ方は様々で、夜のランニングでは時間が止まっているのか

悠久の中にいるのか不確かな感じに満ちるときとか実に一日の変化も

様々であり、総じて過ぎてしまえばあっという間だったという感慨に

包まれるのです。

 

そうです。そんなのでいいのと感じるのが時の流れ方であり、決して

自由に流してしまってはいけないのです。

 

それは物事に振り回されて動いているときや他人に振り回されているときです。

 

それが一番時間の浪費につながり自分を見失い時間の流れるままにされると

気が付くべきです。

 

そんなことに気が付くのに一息つく珈琲タイムは必須であり、その時に深く自制し

もう一度どうしたらいいか考えたり、何をどう感じているか思ってみると良いのでは。

 

その時、珈琲と季節というのはその時間を測る尺度として丁度良く作用し、人との距離とか

そんな空間を測る尺度としても良い効果をもたらします。

さらに、季節を感じるための珈琲を持てばさらに効果満点です。

今の季節を感じる珈琲実況のこのブログを読むこともその使い方と実践とさらに実用的に

作用するのではないでしょうか。本格的に梅雨の最中にあり、いつ降り出すかという空は

もう四日目になり、梅雨の晴れ間もなく過ぎていますが、実は季節は確実にすすみ、夏は

深まっています。

 

今夜ランニングで外に出ると今そのままの季節を感じることができます。走り出す前は肌寒く、

パーカーなどを着ていますが、走り出す時には半袖ハーフパンツというゾクゾクと寒く感じるような

格好で走り出さねばなりません。体が温まるとずっと汗がドドドっと流れて手で拭いながら走ります。

先日、ファン付きの作業服の発明者が言っていた言葉を思い出すのですが、汗というのは蒸発して

いるうちが効果的に体を冷やし効果があり、だらだら流れるようになるともうその効果がなくなり、

汗も出なくなるという発言でした。

 

しかし、夏の体育館でバスケットの試合をしたり、炎天下の公園で二時間も走った経験がないのでは

と考えてしまいました。汗は確かに蒸発しないと効果はないのですが、冷やすために体は常に汗を流し

だらだらと滝のように流れ、汗の層ができる感覚になるのですが、一向に止まる様子もなく、やがて

シャツに真っ白に潮を吹いて体にも白い結晶が出来たりしてもまだ汗は出てきます。そこまで汗をかいて

やっと体のある部分にアクセスできる感じの回路が開通する感じがあったり、奥底にたまった毒素も

汗とともに蒸発するように感じたりします。

 

そうなると体と精神のかかわりが重要になり、ほんの少しのことが精神に及ぼす効果にびっくりしたり

改めて自然とか星とか花や木の存在に意識が行き、それらの生物や空間に自分も一部として存在している

事実に思い至ります。それが今咲いている花や季節の花々が出す香りだったり、武甲山の上に見える星

だったりします。それらがいつも自分とともにあり、宇宙の循環とともに成り立っているそれもほんの小さな

物がたまたま何かで重なりひとつの世界となり自分というものになっているとそれを実感するような時間と

なっているようです。それもその時間が珈琲とリンクしていて珈琲の香りとその季節の花も季節の星もみんな

リンクして宇宙の循環として成り立っていると確かに感じるのです。

 

今年はクチナシの香りとあちこちにある大きな花を付ける百合の花が今の時間を意識させます。

無言の植物たちもこれだけ雄弁に毎日語り掛けるのかと感じる夜のランニングです。朝の珈琲タイムは

それをまた思い出すときでもあります。おのずと今飲む珈琲の味もそれに沿ったものになります。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする