吉田クリニック 院長のドタバタ日記

日頃の診療にまつわることや、お知らせ、そして世の中の出来事について思うところ書いています。診療日には毎日更新しています。

閑話休題

2014年11月25日 05時34分45秒 | インポート

 昨日、年末年始の休診ポスターをPCにて作成しました。1か月処方のかたはあと1か月ちょっとで年末になりますのでそろそろ休診の告知は必要ですね。それにしてもついこの間まで「デング熱」が話題だったのが、いつの間にか「インフルエンザ」に変わっています。もう学童ではインフルエンザ罹患者が急増しています。また小児ではインフルエンザでも溶連菌でもない熱発もみられています。さてこれからノロウイルスも流行ってくる季節になりました。毎年同じですがやはり嗽、手洗い、マスクは基本です。注意しましょう。


米国人のいい加減 その5

2014年11月22日 06時34分00秒 | インポート

 試合後彼女は観客からの万雷の拍手とエールを浴びた。いかにも米国的で感動的な場面である。多国籍人種の寄合である米国人にとって、困難に立ち向かうフロンティア・スピリットを持ち出すのは誰しもが納得できる方法論なのである。彼女の試合後のインタビューでは「私は負けない、前に進む」とのコメントも多くの聴衆の感動を呼んだ。つまり米国では病者を含む弱者に対して周りからあらゆる意味での盛り上げやサポートがある。日本では余命いくばくもない1個人選手を試合に出すはずがないし、その1個人選手のために大きな組織の決め事である大会日程をずらすなんてことはない。日本人はすべてにきちんとしているので例外は認めないのである。逆に米国人はで「ルーズ」なのである。試合中、彼女が急変しようと別に「責任はだれが・・・」などとは考えないだろう。また試合日程を変更して他の数あるチームからスケジュール調整などで苦情がでようとも、やはり弱者にはみな協力的になれるほど決まりごとに対しては「ルーズ」なのである。だからやっぱり米国人は「いい加減」な人種とひとくくりにできるのであると確信している。

 


米国人のいい加減 その4

2014年11月21日 05時35分18秒 | インポート

 また先日TVニュースでみたが、米国のある州で脳腫瘍で余命4か月の19歳のバスケットボールの選手のことが話題になっていた。彼女は常に前向きで自分は動けなくなるまで試合にでると宣言し試合を欠場することなく健気にプレイを続けていた。日本人の感覚からすると余命4か月の選手を、いくら本人の強い意志があるとはいえ試合には出さないだろう。日本の場合は、やれ何かあった時の責任はどうするんだとか、寿命を縮めはしないか?とか、試合中の容態急変の場合はその救護体制はどうするのか等、事前に散々の検討がなされ(なされる振りだけの場合もあるが)、そして最後は「前例がない」ということで彼女の出場は認められないのである。一方、この米国での話に戻るが、このバスケ大会の関係者は大会日程を予定の開催日より2週間も早くして「前倒し開催」したのである。そして彼女は試合に出てゴールも決めた。

 


米国人のいい加減 その3

2014年11月20日 05時48分30秒 | インポート

   何とか代理の消防チーフがインタビューを受けてくれて情報収集は何とか可能であった。さて話はかわるがTVで「Youはなにしに日本へ」という番組がある。これは空港に到着した外国人にインタビューして今回の来日の目的を聞き、面白そうであれば密着取材するという内容である。先日の放映であるが、ある米国人女性に密着取材を申し込んだら快くOKが取れた。そして密着当日になりスタッフが現地の待ち合わせの場所で待っていたが一向に来る気配がない。数時間まっても結局現れなかった。特に向こうから連絡もない。それで密着終了となったのである。もちろんこれら個々の事例だけで、あの人種のルツボである米国人を十把一絡げにして「いい加減な人種だ」と言うわけにはいかない。でも我々punctualな日本人からみれば「あいつらいいかげんだ」と思ってしまうのである。 


米国人のいい加減 その2

2014年11月19日 05時53分20秒 | インポート

 LAの大きな病院で消防のメディカルコントロールを統括している救急医と事前に面談する約束を取り付けてあった。到着後、彼の勤務先の病院に電話を入れたところ「本日は出勤していない。たぶんLA消防の統括室だろう」ということで、そちらに連絡を入れた。しかし本日は出勤していないと・・・。電話をきってしばらくしてかけなおしたがやはり不在で詳細不明とのこと。仕方がないので勤務先の病院にまたかけたがらちがあかない。このままこの救急医にインタビューできなければLAの病院前救護の収穫はゼロになる。途方に暮れて、最後はこの医師を紹介してくれた「元上司」に連絡した。事情を話したら彼の秘書が居所を調べるのでそのまま待つように言われた。小一時間でこの秘書から連絡があった。結果、彼は休暇をとってバカンスにでかけているらしいとのこと。以前より約束をしていたにもかかわらずである。ほどなくして彼本人から電話がかかってきた。詫びる言葉もない。こちらは少し嫌味も込めて「インタビュー今日中にできるのか? 今日は忙しいのか?」と聞いた。すると「とても多忙で会えない」と。休暇先からの電話である。忙しいもくそもない。怒りがわくよりも情報収集が全くできなくなることのほうで途方に暮れた。

 


米国人のいい加減 その1

2014年11月18日 06時15分39秒 | インポート

 大学勤務医時代、医局でよく種々の学会開催の当番にあたった。その際、海外からゲストスピーカーを呼んで講演をお願いした。ある時の主幹では欧州人の医師(このようなくくりも適切とは言えないだろうが)を招へいしたが、最初に依頼する時はメールを送るのである。概ね欧州人はこちらがメールを出すとすぐに返事をくれた。これは助かった。都合が悪ければ他を当たればいいのである。ところが米国人にメールを出してもほとんどいつまでも返事が来ないのである。ダメならダメと返事をくれれば助かるのである。こちらも矢継ぎ早の催促は失礼にもなるのである程度日数を置かざるを得ない。あんまり返事が来ないときは何回かメールを出すが大抵3回目くらいにようやく返事が来た。返事が遅れたことを詫びる文面は大抵、ない。ある時のことである。自分は厚労省の科研研究者として米国各病院の救急医や消防署の病院前救護の調査のため1か月ほど米国各都市を出張した。

 


エボラ出血熱疑い その3

2014年11月17日 06時08分00秒 | インポート

   というわけで11月13日、急きょ医師会でエボラに関する講演会があった。現地で治療に当たった医師の講演であった。感染力は空気感染ではなく飛沫感染である。なので結核や麻疹などよりも感染力は強くはないのであるが、しかし接触したり体液が付いたりすれば危ないのである。保健所でも防護服の着用方法のデモンストレーションを後日行いますと保健所職員のかたが言っていた。確かに防護服の着方や感染のゾーン認識は重要である。ただ何となく思ったのであるが、毎日防護服を着て我々は診療するわけではない。もし患者と一般開業医が接触する機会があるとすれば、それは通常診療中に「不意」に接触するのである。そして待合室では必ず、他の無防備な患者の横に座っているのである。やはり感染予防は流行地から帰国した人の自覚に委ねるしか方法はないのである。ちなみに21日間発熱しなければ感染していないし、また感染していても発熱がおきていない潜伏期では人に感染しないそうである。熱がなければいいが3週間は特に行動に注意していただきたい。 


エボラ出血熱疑い その2

2014年11月15日 06時24分44秒 | インポート

 しかしながら税関では、他国を経由したとはいえ、パスポートみればどこからの帰国者なのかはわかるはずである。流行地に滞在していたのであれば、帰国後発熱した場合の注意事項や対応策を本人に告げているはずである。それは保健所に連絡し指定病院を受診する手はずなのであるが、それがどうして一番無防備な開業医に行ってしまったのか不思議である。これはどう考えても本人の認識不足や理解不足によって「まあとりあえず近場で診てもらおうか」という安易な発想による行動であったものと考えられる。一般開業医はとにかく無防備である。患者は待合室で咳などをして痰などが周囲の患者やスタッフに飛沫していた可能性もある。幸い患者は陰性ではあったが「幸い」では済まされないのである。これだけ世の中あげて感染対策指定病院を設定し、事前訓練までしてスタッフの動きや指揮命令系統も統制したシステムを構築してきているのである。しかしそこの施設にはいかず、いとも簡単に一般開業医を受診されてしまうのであれば、とにかく本人の自覚に期待するしかない。でもどんな感染症でも世の中に蔓延するとしたらまず最初の防波堤はやっぱり一般開業医なんだよなぁ~と思う今日この頃である。

 


エボラ出血熱疑い その1

2014年11月14日 06時36分01秒 | インポート

   11月4日、リベリアから他国経由で帰国した男性が国内で発熱したとのことで一般の開業医を受診した。開業医は(おそらく慌てて)確定診断をするためにいろいろと動いたであろう。結局精密検査の結果は陰性であった。しかし多くの問題を残したのである。まずこんなにも簡単にエボラ疑いの患者が一般開業医を受診してしまったことである。我々開業医には何ら感染防御のマニュアルも器材も持たないし、その患者管理のための施設も持たない。開業医に最初に来ないような水際での防御は検疫で発熱していないか、あるいは3週間以内に流行地に行っていないことを確認しているはずである。確かにこの2項目のインタビューだけではザルみたいに目が粗く、網をすりぬけてしまうだろうが、でもしょうがない。要は本人がきちんと申告したかどうかである。おそらくは今回の患者は流行地からの帰国であることを隠していたかもしれない。 


桂小金治さん死去 その2

2014年11月13日 05時48分57秒 | インポート

 突然バケツをひっくり返したような大声で、「いい加減にしろ!」「甘ったれんじゃない!」「親を何だと思っているんだ!」などというセリフがよく使用されたように記憶している。そして雛壇の若者たちを怒鳴りつけて番組が終了するパターンなのである。よくよく考えるとタイミングはまさに水戸黄門と同じで、勧善懲悪、予定調和のドラマ仕立てである。雛壇の風体の悪い若者たちも、小金治さんの時間通りの説教攻撃を予定したかの如く、完全にしらけきった表情か、あるいはニヤニヤして聞いていたりするのである。今考えると、雛壇の若者たちも劇団の役者さんか何かの仕込みであったかもしれず、また小金治さんも「はい、そろそろ怒ってください」のカンペをみせられてから予定されたように突然沸騰したのかもしれない。たぶん台本通りのバラエティをみせられていたのだと思う。彼が本当はあのように突然沸騰する性格なのかどうかも知らないが、そのようなイメージで固まってしまっていた。もちろんそれで売れたのでしょうがないが、でも作られたイメージ通りにTVで振舞うのもたいへんだったと思う。合掌。

 


桂小金治さん死去 その1

2014年11月12日 06時27分03秒 | インポート

  113日に桂小金治さんが亡くなったとのこと。彼の印象は落語家というよりも俳優、司会者、タレントなどの芸能界での印象が強い。特にアフタヌーンショーでの「怒りの小金治」がすごかった。子供時分に時々見る機会があった。たぶん、ふだんは自分は学校なので休みの時かなにかで見たのであろう。でも「怒りの」印象が強かった。スタジオの雛壇には当時「風体の悪い、反体制風な若者たち」が集められ、最初は小金治がいろいろと質問したりインタビューしたりするのである。そして若者は必ず反社会的なコメントをするのである。最初は「ふんふん、そうなんだ~」と相槌を打って、いかにも若者のよき理解者風の態度を示しているのである。ところが放送時間も残り少なくなると、突然怒り出し説教を始めるのである。このパターンは毎回続くのである。まるで水戸黄門の印籠がそろそろ出てくるかなというタイミングと同じなのであった。 


叙勲 その2

2014年11月11日 05時35分39秒 | インポート

 例えば、下町の工場でわずか数十分の1mm単位での金属加工を、寸分たがわずに目で見てやってのける職人さんもたくさんいると聞く。あるいは金属の丸い打ちだし加工をハンマー一つでドーム状にアールをつける人もいるとか。そしてそれが衛星ロケットの先端に使われているとなると、もはやこれは日本が世界に誇る技術者なのだと信じて疑わない。これら人たちに「叙勲」や「褒章」をと考えるのも早計であろうが、何らかのその卓越した技術に対して正当な評価を公的にしてあげてもいいのではないかと考えるのである。特にモノづくりの分野では農業、工業問わず後継者不足ときく。高度成長期を支えた日本のモノづくりの伝統が衰退していくのかと思うと寂しい気がする。海外で「日本の製品は質がよく壊れない」というプライドは今後も日本のアイデンティティーにし続けたいのであるが。

 


叙勲 その1

2014年11月10日 06時56分52秒 | インポート

 秋の叙勲が発表された。芸能関係では「あーあの人が、やっぱり叙勲ねー」と頷けるものや、あるいは「なんで?あの人が叙勲?」と不思議なものもある。世の中に、あるいは日本に寄与した人たちであろうが、それでもコメントで「何で自分が選ばれたかわからない」と言っている人は、謙遜ではなく本当に何故だかわからないのであろう。芸能関係やスポーツ関係は有名なのですぐにその彼らの活動と対比して叙勲が頷けるものかどうか判断できる。しかしメディアに乗ってこない叙勲者の活動内容ももっと報道してもらいたいものである。世の中には知らないところで地道な仕事をずっと続けている人たちがたくさんいる。彼らは別に陽が当たるのを目的に仕事をしてきたんじゃないというのはわかっている。しかしこのような派手な世界ではないところでの技術者がもっと評価されてもいいんじゃないかとも思う。

 


病院勤務医 その4

2014年11月08日 05時51分01秒 | インポート

    彼の仕事ぶりはエキセントリックで憧れはしたが、とてもまねできなかった。患者がICUから退室するまでは、たとえそれが数日に渡ろうとも、片時も患者のそばから離れなかった。そして、わずか30分でも目を離した隙に患者は死ぬんだと、自分は彼によく怒られた。でも彼と同じようにはできなかったのである。まるで梁山泊のような病院での「合宿生活」が数か月以上続いたが、毎日患者の横に泊まり込んだのである。毎日彼には怒鳴られたが、仕事以外では人間的に魅力があったので好きであった。聞けば、大昔、学生紛争当時かなりの活動家だったらしい。よく酒を飲みにつれて行ってもらった。彼の唯一の外出である。へべれけになっても病院にもどって集中治療室の患者の横でまたずっとモニターを見続けるのである。彼が自分の上司であったのは半年間であったが、この半年はものすごく衝撃的な経験であった。以後、上司が変わった。彼は自身の研修のため退職しどちらかの病院に移っていった。しばらくは彼の現況を知らなかったが数年後、風のうわさであったが、大腸がんのために亡くなったときいた。まだ50歳になっていなかったと思う。今の時代に、「仕事が多忙」とか「激務で」などとTVで言われることがある。なんだかいつもそれを聞いているとちゃんちゃら可笑しいのである。 


病院勤務医 その3

2014年11月06日 06時26分41秒 | インポート

   今の研修医よりもはるかに病院内に拘束されたので確かに辛かったが仕事がおもしろかったので苦ではなかった。当然、一晩中はたらいて1~2時間仮眠して翌日また朝から通常業務に突入した。今の研修医は当直した翌日は帰宅させられるらしい。おそらく今の時代の研修医は肉体的にはさほど辛くはなかろう。しかし腕を磨く機会も減っていることをみると果たしてどちらがいいのか分からない。当時自分がいた病院や自分の直属の上司にもよるのであろうが、特に救急関係ではエキセントリックな上司が多かった。某病院に派遣された時のある上司などはほとんど家には帰らず重症な患者の横にずっといて治療していた。「ずっと」という言葉はほぼ年間300日くらいである。しかしかれの救命成績はトップであった。実績があるのでこちらも文句が言えない。彼の仕事のきつさは今の時代で「仕事が激務」などと評価される程度のものではなかった。まるで修験僧のようだった。<o:p></o:p>