「 犬も forever 棒にあたる」
(by ヒューマン中村)
救助されて帰還した辛坊さんの記者会見でのコメントである。通常、このような救助された人のコメントがTVにて放映されるが、多くは事故へ至った経緯と救助されるまでの状況などが話される。今回の辛坊さんのコメントは、もともと彼がキャスターだけあって一般人のそれとは異なっていた。とにかく「大事な税金を使って個人を救助してくれた」「かなり危険な天候の中で救助してくれた」と自分達の個人プレイにもかかわらず国をあげての救助に対して、感謝と謝罪の意を表明するに終始していたようだ。救助された人が一般人の場合、そのコメントを聴いて「ああなんと無謀な」とか「関係者への謝罪の意はないのか?」と批判的に感じることが多々ある。彼はやはりTV慣れしているというか人前で喋り慣れている。マスメディアの「また横断チャレンジしますか?」といういかにも「踏み絵」的な誘導質問にもひっかからず、「危険を冒してまで救助してくれた人たちのご苦労を思うと、今、この場で『またチャレンジしたいです』などとは口が裂けても当然いえないでしょう」と答えた。それにしてもよくもまあ意地悪でアブない質問をマスメディアは考え付くものだと感心している。答え方によってはいくらでも後から突っ込まれる質問であった。
キャスターの辛坊次郎さんが太平洋をヨットで横断中、海難事故で漂流した。結局は自衛隊によって救助されたのであるが、かなりの悪天候の中で危険を伴うものの無事に救助されたのである。彼は救助した隊員に名前を聞いたそうだが、「チームで仕事をしているので個人の名前は名乗れません」と断られたそうである。それならばせめて所属は?ときいたところ、胸の所属章のワッペンが手渡されたそうである。彼らは公務員であるので個人の仕事ではないとはいうが、最前線の危険の伴うところは、多くの隊員の個々の連携で成り立っている。おそらく規則として名前は名乗ってはいけないとでも規定されているのであろうが、それでもこの「海上自衛隊岩国基地〇〇部隊」とかかれたワッペンを渡したことは自分達の仕事に誇りをかけている表れであろう。下卑た表現ではあるが、素直にカッコいいと感じた。自衛隊は軍隊なのか、国防軍なのかその呼称と立ち位置をめぐっての様々な議論がある。東日本大震災でもそうであったが、彼らの献身的な働きは感動的でもあり、日本が誇れる「組織」であると感じる。こんな時に中途半端な自分達の立ち位置など関係ないかのごとく、とにかく目の前の業務に邁進する現場の隊員はやはりスゴイ。
因みに「副反応」と言う言葉があります。これはワクチンの時に使われる言葉ですが、薬のときに用いる「副作用」とは異なるものです。この「副反応」とは、ワクチンを接種して1ヶ月に以内に発症したすべての報告された症状を指します。つまり、1ヶ月以内に起こったものということであるため、ワクチンが原因かもしれないし、ワクチンとはまったく無関係かもしれません。しかしすべてが「副反応」になってしまいます。現在種々のワクチンの添付文書にかかれている「副反応」がありますが、すべてにワクチンとの因果関係が証明されているわけではありません。自然発生した何らかの重篤な病気がワクチン接種後1ヶ月以内にたまたま重なったものも含まれており、これらも自動的に「ワクチンの副反応」とされたものもあるということも知っておく必要があります。先進国の中でワクチン接種は日本は遅れていると言われています。日本よりワクチン行政の進んでいる国でも当然ワクチンの副反応は日本と同じように起こっているはずですが、他国ではどのように対処しているのか知りたいところです。
ちょうど1週間前に、厚労省から定期接種となったばかりの子宮頸がんワクチンの「積極的勧奨」が撤回されました。理由は注射部位以外の四肢等の筋力低下がみられたということで、因果関係は不明なるも副反応と考えられたためです。もともと予防接種事業は「任意」です。「打つことを承諾人が打つ」というスタンスです。またワクチンは一定の割合で必ず副反応はおこります。今回の子宮頸がんワクチンの「重篤な」副反応の頻度はアナフィラキシー:1/960万回、ギランバレー症候群:1/430万回、急性散在性脳脊髄炎:1/430万回とされています。あらたにおこった筋脱力の頻度は不明ですが、前3者の頻度は飛行機事故の頻度:1/10万フライトよりもかなり低頻度ではあります。ワクチンで得られる癌予防の効果と、一定の割合で起こり得る副反応の割合を天秤にかけて決定するのは国でもなく医療機関でもなく、接種対象となるご本人やご家族の判断と言うことになります。十分な情報を提供するためにいつも情報収集しておりますが、なかなか国からの正式発表になると遅くなります。信憑性には問題もありますが適宜ネットでご確認下さい。
彼女達は「嘘」でも「虚構」でも何でもいいがとにかく非日常を売っているのである。イメージが大切である。ということはその各人それぞれのイメージは脚色があってしかるべきである。否定はしない。あそこのステージで「他のメンバーに対する本音」をバンバン言われたらそれこそギクシャクとなるどころか舞台で取っ組み合いの喧嘩になりかねない。やはりコントロールセンターできちんと統制がなされているのであろう。通常、スピーチ内容をあれだけ感動的にするには各人に「歌心」や「詩的センス」がないと言葉としての表現は難しい。しかしながらあの大人数全員が「歌心」を持っているとは到底思えない。またスピーチの内容自体は感動的なのだが、その盛り上げ方や喋り方は「機械的」であったり「画一的」であったりするように感じる。まあ「誰か」にやらされていたとしても、あれだけ人前でできれば大したものである。社会人としてスピーチ研修会で学んできた技法と考えれば、それこそ今後の人生での大きな財産となるのでそれもよいことなのである。
順位が一つでも違えば扱いも異なるであろう。まさに相撲の番付ではないが自分の順位は死活問題につながる。だから「なんであの娘が私より上なのよっ!あれは組織票よ」とか「あの娘はあざとく話題をつくって得票数につなげたのよっ」とか、さながら政治の選挙の裏側みたいな世界も存在するはずである。本音では憎悪が渦巻く裏側が想像できる。あの猪瀬東京都知事でも、オリンピック招致の一連のスピーチの中で「イスラム圏のような喧嘩ばかりしているところでのオリンピック開催はではどうも治安が・・・」などとやってしまった。他国との比較スピーチはご法度らしい。でも本音では言いたくなるのはしょうがない。しかしそこの雰囲気を微塵にも見せないAKBのスピーチにはなにかしらどこかで裏で強力にコントロールされたものを感じてしまう。いや、絶対に全員にスピーチ原稿を事前に提出させてリスクマネジメント担当者か話し方教室の講師かなにかがチェックしているのだと思う。
AKBの話がでたのでまたその話題。昨年も総選挙の感想をコメントした。たかだか高校生程度のお姉さんのスピーチがとても劇的で感動的なのである。一人二人ではなくほぼ全員が素晴らしいスピーチをするのである。昨年はさすがにアイドルの頂点を目指すもの、やはり一般の同年代のものとは違うなどとコメントした記憶がある。確かに自分が高校生の頃、数万人の前でこのような立派なスピーチなどは到底できるわけがない。もちろんこのスピーチをするために各人が前もってかなり原稿を書いたりして準備をしているはずである。ところが・・・である。不思議なことにほぼ全員がある一定のルールというか暗黙の了解をきちんと守っているのである。それは他のメンバーを誹謗しない。他のメンバーと自分を比較しない。他のメンバーにエールを送る。自分の順位がよくても悪くても投票してくれたファンに感謝の意を伝える。今後も自分は頑張る(何を頑張るのかわからないが)。ということを基本的なコメント内容にしてあとは自身についての味付けをしたコメントになっているのである。
そういえば元モーニング娘の元アイドルであるが、旦那の留守中に起こした彼女のスキャンダルが報道された。たぶんこのままもう出てこれないかもしれない。一般社会も政治家の世界も、そして芸能界であってもスキャンダルが発覚すれば一発で足元をさらわれるのである。ところが一方「それでも彼女を応援する」というAKB総選挙の世界はなんなんだ?と感じてしまう。研究生に降格され頭を丸めたからそれでよしとしているのであろうか?それが「頑張っているから」ということで逆に応援材料となってしまったのだろうか? 通常の社会では「私、頑張っています」という自身の姿勢をみせてもチャンスは与えられず多くは這い上がってこれないのである。このAKBの世界は、「通常の社会」とも、また「通常の芸能界」とも違う世界である。この特殊な世界をもし秋元某が意図的に作り上げたとしたらそれはものすごいことである。たしかにこのように云々言っている自分が「順位など興味はない」といいつつもこの総選挙の様子をTVで見ているのである。つまり結果的に視聴率がとれる世界を作った秋元某の勝ちなのである。この勝者である秋元某もすごい努力をしているであろう。しかしヒットに恵まれなかったおニャンコからAKBまでの間だって努力していたはずである。努力が報われた云々は後付けの脚色であり、要は「結果」、つまるところは「勝てば官軍」ということなのである。
AKBで思い出したが、今年も総選挙とやらが行なわれた。別に誰が1位になるかなどは興味はないが今年は番狂わせだったらしい。AKBはどうも恋愛禁止のルールがあるらしいが、その恋愛禁止ルールを守ってストイックにアイドルの王道を歩む者より、ルール破りなどの『話題性』や、自身にストーリーを脚色した『劇場性』のキャラが選ばれたような気がする。もちろん全員が「努力」をしているのは分かってはいるが、その全員が勝者にはなれない。時代のニーズに併せ自分をアピールして得票できた者のみが勝者になれるのである。ちなみに禁断のルールを破って降格させられたが、今回の選挙ではかなりのファンの支持をうけたメンバーがいる。通常の一般社会でのルール違反者は「それでも私は応援する」とか「だって彼女はいい娘だから」などといわれ、かなり得票数を集めて支持されることはない。政治家だって自分のなした仕事がどんなに世の中のためになっていたとしても、ただ1回の私的スキャンダルで失脚しているのである。
アンケートの意見の中には「『努力は必ず報われる』というのは、報われた人だけが言う言葉」という声も多く見られたとのこと。確かになでしこの澤選手も言っていた。昨年AKBの高橋みなみも言っていた。どちらも「報われた」人、つまり勝者の言である。敗者の言ではない。面白いことに実際に報われていない人が「努力は必ず報われる」という言葉を発信してもマスメディアはその言葉を取り上げないのである。言葉を発した人の結果に「劇場性」がないとマスメディアは見向きもしない。「努力が実ると信じて前向きに努力をすること」は重要なことである。しかし「努力すること=結果の保証」とは別問題である。甲子園の決勝戦では両校のチームとも、ものすごい努力をしているのである。負けたチームだって同じような辛い努力をしているのである。つまり明暗を分けるものは努力の多寡ではなく、運と実力と勝利の女神が微笑むかどうかなのである。なかなか言いえて妙であるのだが、『努力は必ず報われる』といわれて感動的な気持ちになってしまうのはマスメディアの教唆先導であると勘ぐってしまう。
「努力は必ず報われるか?」という設問のアンケート調査があった。結果は「そうとも限らない:54.6%」に対して「報われる:45.5%」という回答が出たようである(Amebaブログネタ・クチコミつながり調べ、回答者数:2321人、2013年4月26日時点)。意外であったのは少なくとも半分近くの人がこの言葉、つまり「努力すれば必ず報われる」と信じているのである。多くの場合、不断の努力を積み重ねても、それが報われずに夢が叶うことはないのである。特に競争社会の中ではその努力しても報われない割合は極めて高率になる。今更この言葉の真偽を追求しても意味はないけれど、少なくとも努力は成功の必要条件ではあるが十分条件ではない。つまり努力しなければ成功はありえないが、その逆の「努力すれば必ず夢が叶う」などということは真にはならない。努力している人の中で成功する人はほんの一握りなのである。
また、おそらくは「一つ一つ確認してから先に進めるように」とでも指示されているのだろう。しかし確認作業はいいのだが、すべての場面において顧客に向かって「~で宜しかったでしょうか?」と確認をとることは不適切である。言葉自体に問題はないが、すべての場面でオールマイティにこの言葉を持ってくるからややこしくなるのである。 「あ できません」という言下に否定する言葉はいうにおよばず、最低限使ってほしくない言葉がこの二つなのである。実際は回答内容をかなり制限しているのにもかかわらず、あたかも顧客に対して選択の自由度が高いと思わせる「いかがいたしましょうか?」と、それから会話のやりとり一つ一つにまで確認をいれさせる「~で宜しかったでしょうか?」の連呼はやめてもらいたい。家に帰ってこの話を家族にした。私は悪いとは思わない。「あっ できませ~ん」とかいう怪しげな言語を操るこの若い女性定員の対応が不適切なのだ。でもやっぱり家族にいわせれば私は「若い女性をいじめた態度の悪いオヤジ・クレーマー」になってしまうのだとか。癪である。オヤジと若い女性であればこちらに勝ち目はない(泣)。