昔、大学時代の試験問題でこの先天性風疹症候群に関する「ひっかけ問題」があった。「先天性風疹症候群は、発熱と躯幹にはじまる淡紅色の皮疹を特徴とする」という設問である。これは×である。「風疹とは?」と設問にあれば正しいが、「先天性風疹症候群」は前述の通り、母体の病気ではなく、妊娠中の胎児の病気であるため胎児に皮疹などはない。実は自分はもののみごとにこの引っ掛けに嵌ったのである。だから今でも「先天性風疹症候群」という病名を聞くと、この時のことを思い出していやな思いになるのである。当時の試験問題作成者はどのようなつもりでこの問題を出題したかは知る由もない。しかしながら、今でも自分はトラウマながらこのことを覚えている。ということは知識の刷り込みと保持を目的とした教育論的技法からみれば、極めて「成功した」出題形式といえるのかもしれない。癪であるが。
ワクチンが打てるのは「妊婦の夫」および「現在妊娠していないご婦人(年齢制限あり)」である。今回の女性の年齢制限を15歳から49歳までと規定している。女性の無料ワクチン受給資格要件に年齢制限はあるが、「結婚の有無」は規定されていない。つまり妊孕可能年齢であれば独身であってもいいのである。近年では独身でも妊娠、出産することは珍しいことではない。しかし独身であろうとなかろうと現在、妊娠していたなら絶対ワクチンを打ってはいけないのである。当然、妊娠中にワクチンをうつとワクチンの影響で胎児に先天性風疹症候群が発症する可能性があるからである。女性は「妊娠していないこと」であり男性は「妻が妊娠していること」であるので、一般の人にはこの要件がややこしい。
胎児が先天性風疹症候群に一番なりやすい時期は、妊娠初期である。時に自分が妊娠していることに気がつかないご婦人もいるであろう。その時に風疹にかかるのが一番こわい。この場合仕事をしているご婦人であれば、社内とか不特定多数の乗り込む通勤電車などの利用のほうが同居夫から感染するよりもありえそうである。一方、夫が単身赴任で妊婦と同居していない場合は、夫から妊婦に感染する可能性はほぼない。しかしながら母子手帳に「夫として」名前の記載された人であれば(ここの欄は妻が任意で書き込むことになっているらしい)、その男性と同居していなくとも籍が入っていなくとも男性は風疹ワクチンを無料で受けられる。ただし夫が無料で打てるのは、妻が現在妊娠中であることが条件である。妊娠していなければ、風疹が妻にうつっても胎児がいないのだから「先天性風疹症候群」になりえない。
ここ数ヶ月前より風疹が流行している。これは感染した宿主はあまり重篤化しないが、妊娠している女性に罹患すると、その後出生してくる胎児にいろいろな不具合を生じるものである。したがって妊娠している女性への感染をさけなければならない。そのため妊娠していない女性でワクチン接種歴がなく風疹罹患歴もない女性に対して国の事業として無料でワクチンをうつという事業が始まった(H26.3.31まで)。それに伴って、すでに妊娠している女性の「夫」に対してもワクチンの無料接種が行なわれている(H25.9.30まで)。夫が風疹にかかると妊婦にも感染するおそれがあるからである。区の説明会で「夫が同居していない場合や内縁の夫の場合も無料でうてるのか」という質問があった。母子手帳に男の名が記載されたその本人であれば、「どんな人」でも可能であるとのこと。なかなか現状を踏まえた生々しい質問であった。
ここまで来るのにまるまる2日をつぶした。職場もズル休みした。パソコン素人の自分のない頭を絞らせて、悩ませて、時間をとらせて、結局「あ それは初期不良です」と他人事のような口ぶりである。「初期不良」といったって結局は「壊れ物」をつかませたのである。売主の責任はどうなるのか? 自分が今まで経験した対応としては「お手数、ご迷惑おかけして大変申し訳ありませんでした。不良品ですので他の新品と交換させていただきます。返品方法は・・・、またお問い合わせに関して今回大変ご不便をおかけしました。今後はサービス向上に努めるよういたします。今後とも当社製品をどうぞよろしくお願いいたします」と「嘘でも」いいから、そういうのがリスクマネジメントであると思っていた。ところがなにやら「初期不良」といってしまえば「これは文句言ったってしょうがないでしょう、だれが悪いのでもないんですから」と言われているような雰囲気なのである。いやはや「初期不良」と「想定外」と言う言葉はまさに免罪符どころか水戸光圀公の印籠のようである。 これを出されたらみんな「ハハハァ~」とひれ伏すしかない世の中になった。
さて翌日は仕事にどうしてもいかなければならないので行った。翌々日再度、電話をサポートセンターに入れた。案の定、1時間はつながらない。ようやく担当者が出た。以前と違う者のようだ。事情、経緯を話したが「まずコンセントを確かめて下さい、電源はどうですか?」などとマニュアルどおりの進行を余儀なくされた。とりあえずそれらはclearしている旨を伝えて〇〇と△△までやったことを伝えた。また最初からやらされるのではたまったものじゃない。最終的にいろいろ向こうから指示がでて「ではこれとこれをやってみてだめならまた連絡下さい」というものだから、「いや、この電話をきったらまた半日以上つながらないので、このまま切らないで話をすすめましょう」と無理にホールドさせた。結局、どうやってもつながらない。向こうの担当者は、「あぁそれでは初期不良です。返品してください。返品手続きですが・・・」と機械的な口調で言い始めた。
大分前に自宅のパソコンを購入したときのことである。セットアップしていたが、どうしても画面が立ち上がらないのである。サポートセンターに電話をしたが、いつかけても話中で相手が出ない。時間をおいて何十回もかけたらようやく担当者が出た。訳を話したら、その対応の仕方はたぶんマニュアルどおりなのであろう、最初から電源のコンセントはどうですかとか、スイッチははいっていますか?とか全部聞かれ、結局はPC本体かディスプレイの不具合のどちらか分からないので「〇〇と△△をやってみて、それでもだめならまた連絡下さい」といって電話を切られた。指示通り○○をやったがだめであり、△△もしたがやはり立ち上がらない。そこでまたサポートセンターに電話をしたら延々と数時間も話中でつながらないのである。結局つながらないまま初日は諦めた。仕事は休んでしまった。(つながらないので休まざるをえなかった)
友人のブログを読んだ。人感センサーつきのランプを購入して台所に取り付けたところ、人がいないのにもかかわらず点灯をくりかえすという不具合に見舞われたそうだ。彼は技術者なのでいろいろ工夫をした。取り付け位置をかえたり、センサーに覆いをつけたりしていろいろ試行錯誤したのである。自分は技術者ではないので、このような設定時の不具合や面倒はまっぴら御免である。買ってとりつけたらすぐに使えるものでないとイライラする。さて技術者の彼がいろいろ工夫して頑張っても不具合は解消しない。結局「初期不良」ということで器機を交換したら新しいものではすぐ良好に作動したとのこと。彼の場合は技術者なので「使い方が悪い」のか「壊れている」のかの見極めがある程度自力で可能である。自分の場合なら、「見極める技術のない素人の自分をこんなに難儀させて、結局こわれものをつかまされていたんじゃわかるわけがない」と文句の一つでも言いたくなるのである。
本来であれば免罪符とは罪の償いを免除した書状のことを意味するが、責任の所在をぼかす意味もある。免罪符的に用いられるもので例えば「想定外」という言葉がある。これはさきの東日本大震災時に枝野さんが頻用した言葉である。未曾有の大震災であったのは事実であるが、「十分に災害に対する準備をかさねていたにもかかわらずこれだけの被害がでたのは、ある意味しょうがないことである」というような印象がその言葉にはあった。もちろん国側にそんな意識はないとは思うのであるが、「復興の手伝いはするが、結果的に事前の準備が悪かったということを追求しないでくれよ」という気持ちも少しはあったと思われる。この時以来、「想定外」という言葉を使えば、なんとなく周囲を納得させられる、つまりは予定調和の大団円に終わらせられるような使い方になった気がする。責任の所在を不明確にする都合のよい言葉になったようだ。
母の友人が母のところへ訪ねてきた。たまたま自分は母に何かの用事があったので母の部屋に行ったところ、その母の友人とあった。自分も少しばかり彼女と面識があったので自分も短い間であるが話に参加せざるをえなかった。ところが一旦、話がはじまるとなかなかその腰を折って中座するのも難しい。話の内容は、いわゆる自分の健康自慢のようなものである。彼女も母同様に高齢ではあるが自分は元気であるという話になった。確かに自分の母よりもずっと快活で活動性が高い。お稽古事もかなり玄人はだしのようである。間違いなく余生を十二分に満喫して楽しんでおられるし、実際そのお歳から想像できるADLをはるかに越えた活動量なのである。とても素晴らしいし感動的である。自分にはこの歳になってもこれだけのことができる自信はない。尊敬に値する。まあしかしながら若作りはしているもののやはり外見上は高齢者である。その彼女が強い口調で言った。「私はバスに乗っても、あんなシルバーシートなんかには絶対に座りませんのよ」と・・・。あぁ・・・、当直明けの疲れている時にこの人だけにはバスの中で出っくわさないようにしたいものである(笑)。
ということでこの高齢男性がシルバーシートにお座りいただけなかったことで自分は立つ羽目になったのである。ただもちろん自分がシルバーシートに座って新たに別の高齢者が乗車して来たなら席を譲ればいいのであるが、なんとなくここには絶対「座ってはいけない」のがマナーであると小さい頃から思っていた。それはそこまで考える必要のない間違ったマナーであるとは思うのだが、もしこの高齢男性がちょっと気を利かしてくれたなら、こんなしち面倒くさい自問自答を当直明けのつかれきった自分の頭の中でしなくてもよかったし、私は疲れた身体を一時でも休めるべく安堵と安らぎの時間が得られたはずなのである。まあ「あの人、シルバーシートに座っているわよ。ほんと、いいのかしら?」などと周囲の乗客に思われるかもしれないと思ったら立っていたほうがましなのであった。車内は「譲り合い」なのである。老いも若きも全員が譲り、譲られることが大事だと思うのだが・・。
10年位前に、都内の某病院で週1回のアルバイト診療をしていたことがあった。そこの病院には駅からバスに乗らなくては行くことができない。毎回バス通勤していたが、ある日のことであった。1台バスに乗り遅れたがたまたますぐ次のバスが来た。車内はあまり混んでおらず、一人の高齢男性が立っているのみで、座席はシルバーシートとその後ろに一般の座席が一つずつ空いていた。その日は大学の当直明けであり疲れていたので自分は座りたかった。さてシルバーシートに座るわけにはいかないので、その後ろに空いている一般の席に座ろうとした。ところがその瞬間、立っていた高齢男性(間違いなく高齢である)がその一般の席に座ったのである。まあどこに座ろうとも自由である。とやかくいう理屈はない。しかし高齢者の権利として付与されているシルバーシートにお座り頂ければ、ほとんど睡眠をとっていないこの哀れな中年医者が一般の席に座ることができバス内はみんな立つことなく笑顔の予定調和だったはずなのである。
「老人を大切にする」という社会規範は成熟した福祉国家だけではなく、彼らの豊富な経験値が社会生活にとって欠かせない後進国においても同様に重要な位置づけなのである。今回のこの光景に遭遇すると、まあとりあえずの先進国で福祉国家である日本において世の中の当たり前と思われるマナーを遵守するのが馬鹿らしくなってきた。もちろんこの高齢女性をみて高齢者全体の判断はしてはいけないのは分かっている。しかしそれをも凌駕するほどのインパクトのある「お芝居」を拝見させてもらったのである。こうなると「はー、そうかゴネれば得するのね」という感覚に陥ることが怖いのである。世の中の高齢者全体のイメージに対して偏見を抱かせるかもしれないということや、とにかくゴネればなんとかなるという誤った規範がもし今後拡がっていくのだとしたら、やはりこの高齢女性のなした罪は重いものだと感じるのである。高齢者を敬うことは当たり前のことである。しかし敬われるべき高齢者の方も、個人的に好むと好まざるとにかかわらず敬われるだけの品格をも期待されるのはやむをえないところである。
この女性はなおも、チクチク運転手に文句をたれている。その間、バスは停車しているので自分はもういい加減にしてくれないかなとイライラしてきた。よっぽどひどければ「もう芝居は止めましょうよ」と言おうかとおもった。しかしかえって関わり合いになると、このような人は高齢者であることを盾にとって面倒くさいことになりそうなので口をつぐんでいた。最後は「きちんとした運転しないと都に投書しますよ」とまで言っている。まったくひどい話である。見るに見かねて着座している中年とおぼしき女性が黙って自分の席をその高齢女性に譲ったのである。そしてようやくまんまと席をせしめたその女性は口を閉じたのである。バスは再び発車したが、この光景をみたら「老人をいたわる」とか「老人を大切にする」とかという社会規範を維持することが何となく馬鹿馬鹿しくなって来た。
このイス取りゲームの一部始終をみていた乗客なら、急発進で転倒したのではないことはすぐにわかる。ところがこの高齢女性は周囲の乗客にむかって「ね、ねっ! 急発車したよね? 急発車だよね」と尻餅をつきながら同意を求めたのである。一部始終をみていた乗客はあきれ果てて?無言で無視しているが、同意を求められた何人目かの乗客は、おそらくこの光景をみていなかったのだろう、「えっ? あっ、あー急発車、そう、そう急発車した。おい、運転手! お年寄りが転んでいるぞ、なんとかしないのか?」と叫んだのである。ついにこの高齢女性の策にはまったのである。運転手はバスを路肩に停車させ、介抱するためにこの女性のところまでやってきた。運転手はその女性を抱き上げながら平身低頭である。「ったく、もう・・急に発車するから転んだじゃないの、あいたたた・・」 嘘である。でも運転手は気の毒にも謝罪するしかないのである。まさに言いがかりとしか言いようがない・・・。