吉田クリニック 院長のドタバタ日記

日頃の診療にまつわることや、お知らせ、そして世の中の出来事について思うところ書いています。診療日には毎日更新しています。

また産科事故 その2

2016年08月31日 06時03分21秒 | 日記
 この文面だけから判断するのは正しくはないが、陣痛促進剤の過量投与が「理由なく」大量投与したとある。医師が大量投与する場合、「理由がない」などということはない。陣痛が弱かったからだろう。もしかしたら、もう少し投与したら分娩に見合うだけの陣痛が得られるかもしれない、だからもう少し、もう少し・・・というのが続いて結果的に大量投与になったのかもしれない。
 しかし、この部分は医師のさじ加減の範疇と思う。あくまで能書のとおりの薬用量にとどめていて効果が得られなかったらすぐ投与を中止をすることははたして是なのであろうか? 「理由なく」と切って捨てる判決文はさみしい気もする。

 ま「た帝王切開もしなかった」とあるが、クリニックで手術の準備がすぐに整うのか? あるいは他院へ転送するにしても受け入れ先を探すにはこれまた時間もかかる。
 緊急帝王切開なんてのはものすごく母児ともにリスクの高い処置である。そう簡単にことがうまく運ぶわけではない。いずれにせよ正常分娩含め出産はかなりの程度の危険性をもった「大仕事」なのである。病気ではないのであるが常に死の危険と隣り合わせの大仕事である。

また産科事故 その1

2016年08月30日 05時56分03秒 | 日記
ネットからの引用です。

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朝日新聞デジタル 8月4日(木)
分娩(ぶんべん)時に適切な対応を取らなかったため、脳性まひになったとして、広島県福山市に住む30代の両親と長男(8)が、市内の産婦人科クリニックの医師に損害賠償を求めた訴訟の判決が3日、広島地裁福山支部であった。古賀輝郎裁判長は医師の過失を認め、計約1億4200万円の支払いを命じた。

長男は2008年、新生児仮死の状態で生まれ、蘇生後に低酸素脳症に陥り、脳性まひと診断された。訴訟では分娩時に投与された陣痛促進剤の量が適切だったかや、緊急帝王切開などの処置を取るべきだったかが争われた。

判決は、陣痛促進剤の過量投与は胎児仮死が起こる恐れがあるのに、医師は理由なく使用上の注意事項に反するなど慎重に投与すべき義務を怠ったと判断。さらに心拍数を示す波形が悪化したのに帝王切開などをしなかったとし、注意義務違反と脳性まひに因果関係があるとした。

判決を受け、父親は「今後このような事例がなくなってほしい」と述べ、クリニックの担当者は「判決内容を確認していないのでコメントできない」としている。
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リオ オリンピック 続きの6

2016年08月29日 05時53分47秒 | 日記
 今回、日本柔道復活などと喜んでいるが、自分はちっとも嬉しくない。銅メダルたくさんとって何が復活なのか。本来なら死ぬか生きるかの格闘技である。柔道は金メダルでなくてはならない。銅メダルあたりじゃ、柔道の理念なんて声高にいっても世界に通用しないだろう。
インタビューアーの「銅メダルおめでとうございました」も失礼である(正しくは「ご苦労様でした。お疲れさまでした」)。銅メダルとった選手自身も銅メダルを嬉しいと思っている人は一人もいないはずである。今後は金メダルをきちんととって正しい理念を世界に広めてほしいものである。柔道はスポーツではない。礼節を重んじる格闘技なのである。それを試合直後に握手をしないエジプト選手を「友好的ではない」と批判したIOCの連中なんぞは全くわかっていないのである。もしこのままねじ曲がったままで、あるいは日本人が金をとれないままなら、日本柔道のオリンピック参加はやめていい。オリンピックには、理念のない「エセ柔道」としてくれてやればいい。
柔道は相撲や剣道や合気道のようにこの東洋の島国のなかで、ずっとガラパゴス化してくれたほうがよっぽどいいのである。


リオ オリンピック 続きの5

2016年08月27日 05時54分40秒 | 日記
 ガッツポーズをするのは論外である。負けた相手に対して「いたわり」の表現ではない。相撲も柔道も剣道もすべて、格闘技でありその原点は「果し合い」なのである。敗者を「死者」として捉えるなら、目の前の自分が倒した死者の前でガッツポーズをして自身の喜びを現すのは、相手(死者)に対する尊敬やいたわりの念のかけらもないことになる。
柔道はスポーツ化し世界に普及したものの、精神性や理念がなくなってきた。いや妙に捻じ曲げられて普及してしまった。むかし、東京オリンピックでオランダのヘーシンクが日本の神永選手から一本を取った時、嬉しさのあまり試合場に入ろうとしてきたオランダ人の関係者を手で制し「入ってくるな」と止めた。彼は、そこが二人の「果し合いの神聖な場」であると理解していたし、まだ礼も終わっていない段階でもあったため局外者の闖入を拒んだのである。彼は外国人ながら格闘技の理念を理解していた。まあ半世紀以上も前の話である。

リオ オリンピック 続きの4

2016年08月26日 06時11分55秒 | 日記
 昔、ロス五輪の女子マラソンでスイスの選手が倒れんばかりにフラフラになりようやくゴールした映像が配信された。世界が「かくも辛い状態でもこんなに頑張ってゴールを目指している」と感動したのである。また当時のメディアもそのようなシナリオで放映した。
 しかし後年、本人の談であるが「自分は最下位でもない。自分よりも下位の選手できちんと走っている人たちをとりあげてほしかった」「あれは人生最悪のレースだった」と述べている。たぶんそうなのである。彼女はあのような姿でゴールしたことはみっともない、恥ずかしいと感じていたのである。

 オリンピックにでるアスリートは厳しい練習を積んで自国内の代表になったのである。その強い自分を見せる場所がオリンピックなのである。ところがヨレヨレになった自分の姿が大きく世界に配信されるのはかなりの屈辱であろう。それが「こんなにも頑張りました。すばらしい、感動しました」などという自分の思いとは別のところのストーリーがどんどん展開されていくのは迷惑な事なのである。彼女のヨレヨレの姿はある意味、「敗者の映像」なのである。敗者ならなおさら、周囲はそっとしておいてあげることがいいのだと思った。

 敗者に対する最大限の賛辞は、無視してあげることである。それでなければ、ただそっと去るのを黙って見守ってあげるのがよいと思うのである。

リオ オリンピック 続きの3

2016年08月25日 05時53分16秒 | 日記
 「敗者のプライドを守るために手を貸さない」という、北の湖の精神は、格闘技のみならずスポーツ全体にもあてはまると思う。

 自分が昔、運動会の時の話である。何らかの競争で足をつった。もちろん最下位にまで落ちたのであるが、そればかりでなくほとんど走れなくなり足を引き摺りながら皆から1周以上遅れてゴールした。その時に観客は、自分に向けて拍手と手拍子と、どこからもなく出た「吉田コール」が校庭全体に広がったのである。これは嬉しくない。みっともなくて恥ずかしかった。早くこの場面から逃げ出したかった。観客は良かれと思っての手拍子であろう。でもこれほどの辛いことはなかった。1位の者に対する賞賛の手拍子とは意味が違うのである。

 オリンピックならなおさらである。皆勝つつもりで参加しているのである。それに向けて辛い練習もしてきたのである。4年間もの間、頭の中には自分が表彰台に上がっているイメージを固めて試合場に臨んでいるのである。
 にもかかわらず、もし負けた場合、「あ~あ負けちゃったなー、納得」とすぐに気持ちが切り替わるわけではない。その時の相手から手を差し伸べられても「屈辱」にしかうつらない。格闘競技ならなおさらである。 ましてや会場全体が自分を敗者としてねぎらい拍手したりすることはこの上なく辛いのである。観客にはその気はなくとも「お前は敗者」という屈辱を感じるのである。

リオ オリンピック 続きの2

2016年08月24日 06時31分19秒 | 日記
 次に日本選手もよくやるが、ガッツポーズすることも相手に対して無礼なのである。これもみっともない。相手を綺麗に投げた後は素早く開始戦まで「何事もなかったように」戻ってくるのが正しい作法であり、またそれが格好いいと思っていた。またそのほうがいかにも強そうに見えたのである。
 柔道とは相撲と同じように格闘技である。そして試合の持つ意味、つまり原点は、大袈裟に言えば「果し合い」なのである。果し合いのあとは勝者は敗者に対して「お見事。立派な最後でした」と敬意を払うのである。
 それは、試合直後お互い握手をして肩をたたき、たたえあって友好を深めることでは断じてないのである。そこがIOCの役員の誤解しているところなのである。

 横綱北の湖は全盛期、憎たらしいほど強かった。倒れた力士に手を貸すことはなかった。確かに「冷たい」とメディアに酷評されたこともあった。後年、彼は明かしたが「勝者が敗者に手を貸すのは敗者にとって情けをかけること。それをされたら全力を尽くし戦うも負けてしまった力士のプライドが許さないだろう」と言っていた。つまり「何もしないこと」が相手に対して最大限のリスペクトなのである。この精神性を外国人は理解しえない。相撲も柔道も同じ格闘技である。

リオ オリンピック 続きの1

2016年08月23日 05時44分28秒 | 日記
 オリンピックの数ある競技の中で、柔道だけ異質なものであると常に思っている。
 自分は柔道部であった。柔道だけは、今行われている世界柔道の流れやマナーに迎合してはいけないのである。柔道の伝統的理念はきちんと継承すべきであるが、自分の石頭からすると、今のオリンピックの柔道の試合は相手に対するリスペクトがまったくないと感じる。

 最初の大きな間違いは、試合後の握手など論外。してはいけないのである。正しくは例に始まり礼に終わるのである。それが相手を敬う最大の作法である。両者が同時に頭をさげることが古来より伝わる相手への最大限の敬意の表現方法なのである。

 今回リオでエジプトの負けた柔道選手が試合直後握手をしなかったということで、それは友好の心がないとIOCは厳しく批判したが、彼らこそ何たるかまったく分かっていない。きちんと立礼していない者に握手だのなんだのと注意するのはお門違いなのである。

リオ オリンピック

2016年08月22日 05時49分24秒 | 日記

 今回のオリンピックは何やら治安も悪く平和の祭典んは相応しくなかったようだ。
 メダル数もここ数回のオリンピックで最多といわれその成果をたたえるべきであろう。

 とくに柔道ではメダル数が多かったようであるが、これはお家芸の立場を考慮すると金があまり多くなく問題があると思われる。
 銅メダルにとどまった選手が多く、これは卓球女子の銅メダルとは訳が違うのである。

 とくに柔道はみんな金を狙っているのだしその実力をもっている代表選手が試合に臨んでいるのである。
 インタビューアーが試合後に「〇〇選手、銅メダルおめでとうございました」と語り掛けるのは、かなりの違和感を覚えた。
 きっと本人も「え? なに?銅メダルがお目出度いのか?」と気分を悪くしているかもしれない。

 オリンピックでは金を狙える立場の人の銅メダルと、まったくメダル圏内に届かない人の銅メダルでは意味が違うのである。
 前者では「おめでとうございます」ではなく「ご苦労様でした。お疲れさまでした」と言うべきであろう・・と感じた。

一番目立つのは?

2016年08月20日 06時05分26秒 | 日記
 オリンピック女子シンクロで日本チームが銅をとった。今季より再度日本チームのコーチに戻った井村氏のコメントが気になった。
 開口一番(だと思うが)、「辛い練習でも私の言うことをきちんと聞いて、ついてこれればこのような結果が伴うということの証明ができた」と・・。これは選手のねぎらいではなくコーチの自己礼賛ではないのかと?・・・。

 井村氏が中国チームのコーチに就任している間、日本はメダルに届かなかったのである。そして中国は力をつけ世界第2位のレベルを保ち続けた。
 もちろん彼女の指導で中国のレベルも上がったのであろうが、逆に言えば日本からの指導者流出で日本が勝てなかったのである。
 オリンピック理念は世界平和と友好などとはいうが、まあ結局は国別対抗運動会である。
 日本が勝てなかった理由を考えると、指導者の海外流出をゆるした当時の状況に何があったのか気になるところである。
 もしかしたら中国からのオファーであっちに行ったと言うのであろうが、実際は何か内紛があって彼女は「追い出された」のかも?と勘ぐってしまう。

 だから彼女のあのコメントがどうしても引っかかるのである。
「どうだ、私の指導力をみたか」とでも言わんばかりであると感じた。

君が代斉唱

2016年08月19日 05時48分37秒 | 日記
 オリンピックで金メダルを取った選手が表彰式で、君が代を感激しながら斉唱するさまはこちらもグッとくる。その美しい姿をみてフッと思った。自分の経験ではないが、昔、学校の卒業式で、君が代斉唱、日の丸ボイコットを指導するような教師の風潮があった。おそらく今でもそのように考えている左翼系教師も数多いだろう。生徒たちに君が代や日の丸の存在を否定する様なイメージが定着し、そしてこれら生徒たちがオリンピックで、もし金メダルをとったならば彼らは表彰式をボイコットするのであろうか? そして諸外国の人がこれをみて日本は変な国だと違和感を覚えないだろうか?と妙なことを考えてしまった。オリンピックは世界の運動会である。自分のチームが優勝すれば自分のチーム(国)を誇りに思うだろう。事情はいろいろあろう。でも、たぶんみんな国を背負ってきているという誇りで突き動かされているのだと思う。やはり表彰式で金メダリストが国歌を斉唱するさまは美しいと思うのである。

都知事選 その4

2016年08月09日 06時09分37秒 | 日記
 今回の小池劇場のお蔭で都議会の構図があからさまになってきた。自民党都議のドンと呼ばれている内田都議の存在である。どうやら彼とその側近が内々に話をすすめ議会を握っているようである。・・・と書くといかにも彼が権力を集中させてその権力に付随する利権も漁っているように映る。確かにそれはありうる話である。このような力を付けた人の元には、自分は「望んでいない」にもかかわらず、便宜供与の見返りとしておこぼれが必ず付随してくるのである。それはしょうがない。

 しかし都の職員は誰を一番頼りにするのかというと、「一番仕事を短時間に片づけてくれる人」なのである。つまり一番スムースに施策を通してくれる人に内々に話を持っていくのは当たり前のことである。それは都議会が了承しないと話は通らないのであるから、最大派閥である自民党都議のドンに持っていけばよいのである。
 自分が都の職員だったら、自分の手持ちの施策を早く通してほしい。議論なんかされて滞れば、また自分の仕事が増えるので困るのである。この施策が通って将来的にうまくいかなかったとしても、それは都議会が決めたことで自分の責任ではない・・と考えるだろう。とにかく自分が職員なら議会を簡単に通過すればそれでいいのだ。

 なので自分だったらまず根回しは知事ではなく内田都議の所に持っていくだろう。この人に寄っていれば職員は安泰なのである。これは当たり前の図式なのである。
 おそらく、今回小池新都知事の誕生を一番苦々しく思ったのは自民党都議団ではなく、都の職員であろう。でも彼ら(職員)のすごいところは絶対に顔には出さないところである。

都知事選 その3

2016年08月08日 06時09分38秒 | 日記
 またクビ覚悟で小池さんを応援した若狭衆議院議員は、以後散々TVの番組にでて自民党都連の権力集中を喋っている。まさに善玉悪玉の図式をじわじわと固めてきたようである。彼も小池さんが勝ったことで自分の株をあげた。
 というか、TVで喋る機会が増えたので、小池さんの「水戸黄門化イメージ戦略」をより進めることになったのである。若狭氏にとっても元東京地検ということで、まさに悪代官を討つために立ち上がったというイメージを打ちだせたのである。

 しかし、もし小池さんが負けていれば間違いなく若狭さんは逆賊となり、自民党から血祭で追い出されたであろう。まさに勝てば官軍となったのである。

 政治の世界はどちらがいいとか悪いとかの問題ではない。たぶんどっちも正しくて、またその逆にどっちも正しくないのだろう。
 自分のたてた筋書き通りにことが運んでくれるかどうかが正義なのである。その点、小池劇場の台本では小池さんが水戸黄門のイメージを植え付けることに成功したのであるから流れは彼女に傾いていることになる。