学生時代、小児科の講義で教わったことである。単なる感冒、発熱で抗菌薬を出すのは間違っていることだからやらないようにと言われた。そしてそんなことを将来するようではダメな医者であるときつく言われた。抗菌薬は確かにウイルスには効かず細菌のみにしか効かない。また細菌の種類によっては効くものと効かないものがあるのは常識である。しかしながら小児の発熱時にまるで解熱薬のように使われていた時代もあったのも事実であるが、抗菌薬の漫然投与や不適当使用によっては耐性菌が作られることも医学の常識なのである。今では耐性菌によって患者さんが死亡し、もし訴訟になった場合では医療側が敗訴する事案が多くなったことを経験する。投薬するかしないかは当然医師がきちんと判断して薬剤の種類の選択、投与のタイミング、投薬期間をきめるべきなのである。<o:p></o:p>
その方の憤まんはなおも続いた。たまたま「その日、体調不良で、あるいは足の故障で関門の制限時間に引っかかった」という場合もあるかもしれない。しかしフルマラソンは数か月前からのトレーニングの積み重ねであり、足の故障や体調不良は当日までに治しておくこともトレーニングの一環であるというのだ。だから「たまたま当日体調が・・」などということはトレーニング不足、調整不足の意味と同等であり、当日までに一番いいコンディションを作れなかったのはすべて自分の責任であり、言い訳は通用しないというのだ。かなり厳しい捉え方をされているとも思うが、自分も過去大学時代に柔道部だったのでわかる気がする。わずか1試合5分のために辛い辛い練習が数か月も前から続くのである。当日の試合の時に自分の体調をピークにもってこれなければ最初から選手失格なのである。連続6回落選されている方の「情念」を感じ取ることができたが、うーんなかなか重いものがあるかなぁ~(笑)。<o:p></o:p>
この年配の連続6回落選された知り合いがなおも言っていた。「制限時間7時間で完走できない人は最初から当選しても辞退すべきか、あるいは最初から応募しないこと」だと。この7時間の制限時間というのは95%以上の出場者が完走できうる時間なのだそうだ。イベントとはいえスポーツの祭典である。完走が危うい人にはイベント感覚ではなく本気モードで頑張ってもらいたいものである。しかも抽選で出場をかちえた人の背中には「自分こそ出場したい」という9人の落選者を背負っているのである。その9人の人たちの羨望のまなざしを受けていながら、途中関門の制限時間に引っかかっているようでは最初から「練習不足、やる気がない、自分が出たほうがましだ」ととられてもしょうがないというのだ。確かにフィニッシュのゴール寸前で時間に間に合わなかったのはまだ許せる。しかし早々と20kmや30kmあたりの関門に間に合わなかったランナーは最初から42.195km走ることのできる脚力もないということが露呈しているというのだ。この知り合いのいうことはもっともである。<o:p></o:p>
全国吹奏楽コンテストというものがある。一つの高校が何年か連続して地区優勝するとその高校は地区大会で金賞をとっても1年間全国大会にあがることができない、つまり1回休み(地区大会どまり)というシステムがある。高校3年間で自分がレギュラーにようやくなれたとしても、その年に1回休みにあたっていると最初から自分が全国大会にはいけないことはわかっているのである。たぶんモチベーションもあがらないだろうし何より寂しい気持ちも大きいだろう。高校時代の1ページは二度とないのである。たぶん悲喜こもごも、賛否両論である。ただしこれは過酷ではあるが公明正大で透明なシステムである。東京マラソンの抽選もそうすればいい。複数回当選者、前回当選者が再選された場合、当選から外しお休みいただくシステムである。そうでもしないと、あの最初から○○枠で特別な選抜者が存在するとわかっている大会にもかかわらず、一方で「厳正なる抽選をしています」と矛盾した表現をしているという疑惑はとても晴れないのである。<o:p></o:p>
石原さんが都知事時代にいっていたが「そんなに出たけりゃ10万円はらってチャリティランナーとして参加すりゃいいでしょう。諸外国の大きな大会ではチャリティという意識がすごく高い。日本人にはもう少しチャリティ精神が向上してほしい」といっていた。確かに一理ある。でもこれは「不公平選出」の問題をすり替えただけである。まあでも「うちの大会は厳正なる抽選というのはしていませんよ」と公に言うはずがない。厳正なる抽選なのだと思い、夢をもって応募する人にはかなりの冒涜なのであるが、「この世の中信ずる者は騙される」と思っていたほうが被害は少ないだろう。連続7回当選の自分の元同僚開業医は、前回はディズニーの着ぐるみを着て走ったが、今年は一転本気モードで走ったそうだ。そして今年は3時間半のタイムであったようだ。すごいものである。すごい脚力である。これなら秘密裏に大会側から選抜されてもおかしくない。あのような大会である。ランダムに抽選して鈍足ランナーばかりに偏っても大会編成上困るだろう。それでもなおかつ運営側が「厳正だ」と言い張るなら、彼の当選倍率は1/1000万人である。こんな倍率の人が自分の周りにいること自体がこれまたすごい確率なのであるから、最初から「厳正」という言葉はかなり疑わしくもなる。<o:p></o:p>
この年配の知り合いの方がこぼしていた。「このような東京都あげての一大イベントなので○○枠などという最初から大会関係者が所有する出場枠というものがあるだろうこともわかる。TV受けするエピソードを選ぼうというのも分かる。しかし今回の父娘の4回連続当選の出場者は『今回も当選したので』といっていたことから一般枠で応募した?らしいことも伺える(ただ選ぶのは大会側だろうが)。「2人そろって4回も当選し続けるということは驚異的な高倍率である。4回も応募したら通常はどちらかが落ちるか、あるいは2人とも落ちるかというのが普通である。しかしそれにもかかわらず2人そろって4年も当選し続けてきた稀有な2人が、またなぜ同時に面白いTV受けするエピソードまでも持ち合わせているのか、そこの所に何らかの意図的操作の介在を疑わせる」といっていた。彼の論旨は「厳正なる抽選」といって人に希望を持たせたり、公平性を謳ったりするような表現はやめてほしいというのだ。どうみても自分から応募していない芸能人が出場しているのを見れば、確実に「特別枠」というものが存在するのである。そうである限りは最初から厳正な抽選などありえないというのだ。ごもっともである。うちに来る患者さんにこの話をしたら「な~に○○枠? 先生、また何をそんな青臭いことを・・、バッチ、バッチ(といって襟を指さしながら)、都会議員に頼めば、一発で当選よー」と何やらきな臭い、嘘か誠かの話をされたのが印象的である。<o:p></o:p>
最初の頃の開催では当選倍率は5倍くらいだったが、回を重ねるごとにその倍率は狭き門になってきた。毎回倍率を10倍と仮定すると6回連続落選の知り合いは10回に1回しか当たらない確率なのでまだあと4回落ちても不思議ではない。しかし年配なのであと4年間、完走できうる今の脚力を維持できるかは自信がないといっていた。浅田真央に次回4年後のオリンピックを期待するのと訳が違う。彼女のピークはおそらくあと4年しても十分であり、まだまだ伸びしろがあるだろう。しかしこの連続6回落選の年配の知り合いは年ごとに筋力、体力、精神力、記憶力が低下してくるといっていた。まさに「いつ出場させてあげるの?」「今でしょ!」というすでに古くなった流行語の通りなのである。今、出場させないと一人の市民ランナーの希望の灯を消すことになるのである。大会関係者は面白いエピソードの出場者を優先させ、その他の希望のともしびを消そうとしている・・・といったら過言であろうか?<o:p></o:p>
2月23日に今年の東京マラソンが開催された。朝からずっとTVで観戦した。今年もなにやら出場応募者は定員の10倍にもなったそうである。35000人の出場者なので応募者は単純計算でも35万人いることになる。面白い?ことに自分の知り合いの元同僚開業医は連続で7回出場しているのである。また別の知り合いは連続して6回落選しているのである。まあこの落差はいったいどうなっているのであろうか? 厳正なる抽選などといっているが、絶対そんなことはない。TVで放映されたのであるが、こんなエピソードがあった。出場者で父が若いころからからのランナーで娘もランナーという父娘がいた。山梨の神主さんらしい。この東京マラソンでタイムを競うことすでに4回も行っているそうである。同一の家庭でしかも父娘の2人が同時に、しかも4回も当選するのはどう考えても厳正なる抽選などでは起こり得るはずがない。連続6回落選されている方への冒涜に値する。それなら最初から「エピソードが面白そうな人は抽選しないで事務局が選択します」と最初から言えばいいのだ。
総理は猪木議員の北朝鮮渡航を苦々しく思っているだろう。なかなか外交のかじ取りも難しい中、このような猪木議員の質問である。総理は「スポーツや文化は外交を円滑にする」「自分も猪木氏の試合で楽しんだ」と答えたが、実は例にあげたハルクホーガン戦は猪木が大恥をかいた試合である。ハルクホーガンのアックスボンバーでふっとばされた猪木はリング下に転落し、だらしなく舌を口からはみだして失神してしまったのである。あとにも先にも失神KO負けはあの試合だけであるが、それを総理は例証したのである。総理はスポーツが「外交に好ましい」と言いつつ意図的にあのだらしない試合をあげて「楽しませてもらった」といったわけで、本意としては目いっぱい猪木議員に対して嫌味を言ったのだと私は感じたのである。まあこの本意を知っているのは、安倍総理はもちろんのこと、猪木議員本人、そして自分を含む昭和のプロレスオタクだけなのである。なにやら秘密話めいていて、これもまた楽しいのであるが。<o:p></o:p>
安倍総理が答弁に立った。「スポーツや文化が外交に与える影響は国際交流の場において好影響を期待できる。かくいう自分も猪木さんとハルクホーガンの試合を観て大変心を躍らせ楽しませてもらった。しかし現在北朝鮮との外交は慎重にならなければならないし単独での議員としての渡航は控えていただきたい」とやんわり答弁したのである。しかしこの答弁を聞いたプロレスオタクならだれもが思ったであろう。安倍総理は本音で猪木議員に対して最大限の皮肉あるいは嫌味を言ったのである。さすがに総理の答弁は口調こそ柔らかく相手の職業や経歴を尊重してものを言っているようだ・・・と解釈したら実は大間違いなのである。政府の要人がいきなり処刑されたこの不穏な時期の北朝鮮に、いくらなんでも国会議員の身の上で日本人が渡航するのはいささか問題がある。渡航時の猪木議員を媒介として現在の北朝鮮の戦略的映像がアピールされたのは記憶に新しい。猪木は宣伝媒体に用いられた可能性もあり今後の外交に波紋を及ぼすかもしれない。<o:p></o:p>
議長が気遣わなくてはならないようなそんな具合の悪いヤワな議員を選んだ国民にも問題がある。ところで国会ではヤジが認められている(のだそうだ)。大声で野次ることは悪いことではないそうだ。時に先輩議員は新人に野次り方を教えたりもするという。しかも最近では見られないが時に国会では大乱闘になることがある。ヤジの大声や大乱闘がよくて猪木議員の大声がいかんというのも不公平である。まあ、あの猪木議員を制した議長は猪木議員が嫌いなのであろう。いかにも人の健康を気遣うようなふりをして自分の私的感情を押し付けているようでこの議長の態度は居心地が悪かった。さて肝心のアントニオ猪木議員の質問であるが「スポーツや文化が国際問題を抱えた国との交流や外交に及ぼす影響を総理の立場で答えてほしい」と質問した。<o:p></o:p>
3月12日、猪木参議院議員が国会質問にたって総理に質問をした。例によって「元気ですかっ!」と大きな声で檄をとばしてから質問に入ったのであるが、議長から「元気なのはよいが、心臓の悪い議員もいる。びっくりされる人もいるので大きな声は出さないように」と注意を受けた。彼の肩を持つわけではないが、彼は北朝鮮で政府要人にあったときも「元気ですかっ!」とやった。国際政治交流の場でもやっているのである。それがいいのか悪いのかの問題ではないが、この檄にも似た前ふりは彼特有の挨拶なのである。国際交流の場でこれをやって「けしからん」という話は聞いたこともない。それにもかかわらず国内の国会で注意を受けるとは、はなはだ疑問である。「心臓の悪い議員もいる・・・」という理由があげられたが、大声出されて具合がより悪くなるような心臓病をもった議員がいること自体問題であろう。猪木議員の自己アピールにも似たこの前ふりを議長は「国会にそぐわない」とか、「ふざけていてけしからん」と感じたのであろう。
これら「感動ありがとう」などのお約束言葉は実に便利である。だから自分ではあまりにも便利さをのみを感じてしまうために、この言葉を聞くとせっかく感動している自分の気持ちが途端に萎えてしまうのである。どうもこの言葉が流行りだしてからだと思うが、選手のほうもコメントを求められると「国民の皆さんに感動や元気を与えられるような試合結果を出したいと思います」などと言ってしまうことがある。選手のmotivationはさまざまである。国民への感動付与を自分の競技生活の原動力とすることも悪いことではない。その選手がいい成績をあげられるなら原動力の種類はなんでもいいのである。ただ観客や視聴者が感動したり元気がでたりするのは、選手が観客に向かって「感動を与えること」を意図して競技した結果ではないと思う。いつだってその感動の主体は試合を観た観客側の能動的な結末であると思うので、観客の反応は様々であり「感動ありがとう」に右へ倣えでなくともいいはずである。私のようなひねくれた鈍感人の場合では、選手から「皆さんに感動を与えられるような~」などとのコメントがなされると、やはりこれも「お約束言葉」なのかと急激に白けてしまうのである。あぁ~素直に感動すりゃいいんだけどねー(泣)。<o:p></o:p>
ということはこれら「感動ありがとう」等の言葉は、自分のような感動場面を共有できない鈍感人に対し「さあ今が感動しどころだ」と注意喚起してくれるような一種の「掛け声」であるのかもしれない。最近の(といっても古館一郎あたりからだろうか)、スポーツ実況アナウンサーは感動絶叫型がほとんどである。試合場の興奮をそのまま届ける、というより何やら興奮度を倍加させて実況する義務でも課せられているようにも見える。より面白く盛り上げることはもちろん悪いことではない。そして本来は冷静に実況中継すべきなのであろうが、その中継している本人が盛り上がって興奮することも悪いことではない。しかしながら、結婚式の司会者のように「出席者を泣かせてナンボ」のような感覚で、視聴者を感動させるためにいろいろパフォーマンスしているのだとしたら、みごとにその話術に乗ってしまっているということになる。<o:p></o:p>
「感動をありがとう」「元気をありがとう」「勇気をありがとう」という言葉を聞くと、なぜかしらこちらも「あ 感動しなければいけない場面なのかな?」と感じてしまう。とても便利で何かお約束言葉みたいになっていることも不思議である。20年前には確かになかった言葉である。何故突然このような言葉遣いが出現し、かつなぜ定着してしまったのか不思議である。特に国民のスポーツ嗜好などは多様化しており昔の人気スポーツは相撲や野球であったが、今ではサッカーに人気があるようだ。自分はあまりサッカーには興味はないので見る機会もあまりない。したがって素晴らしいシュートをして得点してもよくわからないためピンとこない。試合後の「あのシュートが素晴らしかった。感動した。あの時失敗をおそれずによく敵陣に切り込んでいった。あの勇気はすごい。勇気をありがとう」などとの観客のコメントがでると、こちらもつい「はぁー、あっ、あそこの切り込みがすごいのね、あ 今感動する場面なんだ」と初めて気が付くという体たらくなのである。<o:p></o:p>