自分が研修医時代に経験した歯車に上腕を挟まれた患者さんをことは、実は父の昔のエピソードを最近母から聞いたので思い出したのである。父が開業したての昭和30年代前半のころの話である。新築の家かなにかの工事現場で、大工さんが高い梁に打った釘に腕をつきさして宙ぶらりんになってしまい、その救出に父が呼ばれたのであった。父は「そんな高いところじゃ手当はできないから、柱をきってケガ人をおろしなさい」と周囲の職人に命じたそうだ。そこで柱が切られ職人は地上に降ろされ父の処置を受けたそうだ。何の外傷教育も行われていない時代に、現代の外傷初療のゴールデンスタンダードを遂行したのかと思うと父も大したもんだと思った。しかしながら親子して似たような経験をするもんだなとこれまた不思議な感覚である。まあその後、父が患者さんに感謝されたか恨まれたかどうかは母から聞いていないので定かではない。
努力をしても恨まれることもあり、逆に努力をしないでもすごく感謝されることもある。例えばある特定の感染症で経過が定型的なものでは「何日目頃に解熱」と経過が決まっているものもある。このような時に「明後日ごろ熱下がりますから、あと1~2日の辛抱ですよ」と告げて、それが当たればやたらと感謝される。また小児の疾患では症状が出揃うまでには数日かかることがある。最初は熱だけのため医者は「なんだろうなぁ~様子見ましょうか」ということになるが、数日後心配になった親は別の医者のところに患児を連れて行く。数日たって所見が出揃う頃に診れば「あ~お母さんこれは○○ですよ。明日にはよくなりますね」ということになる。そして親の評価は「最初に診た医者はヤブ医者よ」ということになりかねないのだ。これは運である。こちらが努力したかしないかにかかわらず医療というものは結果がよければすべてよしなのだろう。やっぱり因果な職業である。
当時勤めていた病院は大きな病院だったが、田舎の病院であり周辺人口も多くはない。他の通院患者さんからの風聞で、「触った感覚もない動きもしないこんな腕が肩からついていても邪魔でしょうがない。あの時現場でバッサリと切ってくれたほうがよっぽどよかった。くっつけてくれた人を恨みたいよ」と言っているのを聞いた。とても申し訳ない気持ちになったが、さりとて現場で腕を切断すべきという判断も技術も当時の自分にはなかったのでこれはもうしょうがないことだろう。自分を含めた多くの人の努力と熱意というものが、その人にとって時に好まない結果になることもあるのだとこの時はじめて知った。世の中には頑張らなくてもいい医療というものも存在するようだ。しかし、あの時現場で頑張ったからこそ失血死させなかったのであるから、けっして間違ったことをしたわけではないだろう。いやはや感謝されるか恨まれるかなんて紙一重である。
手術後しばらくの後、その患者さんは退院していった。入院中リハビリなどをして少しでも左上肢の機能回復をめざしていた。手術直後は腕が生着していることに大変喜んでいた。そして彼もリハビリをこれから頑張ると意気込んでいた。ところがこれは後から聞いた話であるが、リハビリを1年以上続けても、どうも思わしくない。手術直後となんら変化はなく触っても感覚はないし、まったく腕はピクリとも動かないのだ。神経の完全切断では神経を縫合しても機能回復は無理であろうと思ったが、まさにその通りの結果となった。リハビリを繰り返してももう回復の見込みはない。ただ単に肩から廃用肢がぶらさがっているだけということになった。患者さんにとっては動かすこともできない感覚もない腕は無用の長物となってしまったのだ。嗚呼・・。
「えっ?ええ? ああ・・さ、三号絹糸です・・」といったら、「おまえなぁ~太い腋窩動脈に3号は細すぎるだろう。ほら、もうはじけそうだぞ!」と怒られた。そうだ、これでは細すぎた。またやっちまった。でもあの現場の壮絶な状況で出血をとめるために血管を糸で縛るという発想があっただけ自分ではよしという感覚であった。患者の頭側にたって麻酔をかけながら術野をみるとこちらも壮絶であった。まさに上腕が骨と皮のみで肩にくっついているという感じであった。筋肉は断裂すると収縮して奥に引っ込んでしまうようだ。その両端をさがして引っ張り出す作業も大変そうだった。そして延々と手術は続き、断裂した血管や神経を縫合し、そして挫滅した筋肉などもできるだけ可及的につなぎ合わせた(ようだ)。左腕に血流は再開しピンク色に戻った皮膚色を見て、どうやらうまくいったらしいのは素人研修医の自分にも理解できた。まあ手術の成功に自分も少しは加担できたのだろうと勘違いしながら少しまた嬉しくなった。
「おい! 吉田!なにぼや~っとしてるんだ。お前が患者の全身麻酔をかけるんだろが」という声で現実に引き戻された。そうであった・・・手の足りない病院では全部自前で麻酔から手術から患者管理までやるのだった。外科研修医で腕のない自分は何かしらのお役にたたなくてはならない。幸い傷病者の全身状態は止血処置と輸液で安定している。それほど全身管理は難しくはない。いよいよ自分が麻酔を担当し手術が始まった。麻酔中は患者の全身状態に気を配りながらも、無事に患者を病院まで搬送できたことで何となくポーっと気分が良かった。よく考えると患者の手術が終わるまで本来は安心できないのだが、まあ半人前なのでしょうがないだろう。ところが「おい吉田! 腋窩動脈を縛ってある糸は何号だ?」という声でまた現実に引き戻された・・。
さて話はそれたが本論にもどそう。
その工場から患者を収容し救急車で病院に戻った。救急外来では上の先生方は待ち構えていてくれていた。今でも覚えているが彼らの顔を見たときは正直ホッとした。これから先は研修医の自分には手術などできる腕はない・・・、ということは、自分はここでお役御免なのである。処置には随分もたつきながらも、自分は当時の己の能力と技術をフルに活用し患者を生きて病院まで連れてきたのだ。正直この達成感は嬉しかった。そして「おぉ、よく上手いこと連れてきたなぁ」というお褒めの言葉も少しは期待した。部長に期待されて自分が送り出されたのである(本当は他に誰も人がいなかっただけなのであるが)。いずれにせよ不安はもうどこへやら、「選ばれし者の恍惚」のみに酔いしれようとした、その次の瞬間・・・。
いま全国的に普及しているAEDについて、一般人がこれを使用することは厳密に言えば「医師法違反」なのである。これは事実である。しかしそうすると日本国内では医師以外使用できなくなるので、ここで緊急やむをえない場合は第三者が傷病者の生命、財産を管理することが許される「緊急事務管理」の法律を適用したのである。つまりAEDのボタンを押すたびに「医師法違反」をし、同時に「緊急事務管理」を適用するという二重構造をなりたたせたのである。つまり面倒な法整備をまったくすることなくAEDを運用させたのである。このAEDの法解釈を議論しているときに判明したのであるが、「緊急事務管理」という法律は一般人に対してのみであり、医師に対してはそれが非番時で無償の行為であったとしても免責されないことが明らかになった。
極端に言えば医師というものは、己が死ぬまで24時間365日継続して医師であることを義務付けられているのである。こりゃあ、やっかいである。業を背負っているとしかいいようがない。
医師が、現場でおこなった応急的行為にて傷病者が予期せぬ悪い状態になった場合、ボランティアで行ったにもかかわらず医師の行為というものは免責されないのである。つまり善意で、しかも無料でおこなった救命的行為でも、医師の場合は結果の如何に責任が問われるのである。こんなことなら医師は現場で突発的に傷病者が発生しても「診療の求め」さえなければ素通りしてもよいのであるし、「見てみぬ振り」をしてしまってもよい。ただおそらく日本の多くの医師たちは誰から教わったわけでもないが自発的に救助に参加するであろう。法的整備がおざなりにされている状態であることが判明したのはAEDを日本に導入するとき、一般人がおこなう医療行為として医師法との絡みが議論されたときであった。
ところで、このように医者が現地で診療を依頼されることがある。たとえば旅客機や列車の中や、あるいは非番時の観光地などにおいてである。このようなときに依頼がかかったら医者は診療の求めを拒否することはほとんどできないそうである。医師法には「やむをえない理由がある場合を除いて拒むことはできない」とあるが、これは自分自身が動けないほどのケガ以外ないそうである。たとえ自分の家族が死にそうな重病でもダメだという判例があるようである。医師のボランティア診療の場合もしかりである。しかも、もしボランティアでも医療事故があった場合、まったく医師に対しての免責はないのである。米国では現場において善意で行われた緊急の医療行為はその結果が悪くても免責されるという「善きサマリア人法(Good Samaritan Laws)」というものがあるが、日本ではこれにあたる「緊急事務管理」というものが医者には適用されないのである。立法府はこのような法律整備を20年以上も前からしてくれないのである。
まず、すぐに傷病者にとりついたことは安全管理面で失格である。次に傷病者は顔面蒼白でいわゆるショック状態なので、酸素投与と点滴ラインを確保すべきであった。まさに創部から歯車をはずして大出血でもされたら患者の命はなかったろう。まあとりあえず何とか出血を押さえ込めたのは運が良かったとしか言いようがない。その後は傷口に詰めたガーゼを思い切り両手で押さえつけて、救急車に乗り込み病院にむかった。車内ではガーゼの隙間からあふれてくる出血にガーゼを追加し握りこんだが傷病者は「痛いよ、痛いよ、きつく握らないでくれよ、何とかしてくれ」と私をにらむのであった。自分は「こんなことするのは生まれて初めてなんだよ。しょうがないだろ。こっちだって辛いんだよ」と言いたかったが、そんなことを口にできるわけはなかった。医者とは因果な商売である。
間違いなく歯車の先端は腋窩動脈に食い込んでいる。すぐに歯車をとめさせ動脈の上流の組織を剥離し動脈を露出させ、そこに糸をまわして緊縛した。そしてまた徐々に歯車を逆回転させ、動脈壁に食い込んでいる歯車から完全に上腕を抜くことができた。ところが次の瞬間、腕の傷口からは突然ワ~っという勢いで出血しはじめたので慌てて傷口にガーゼを詰めて押さえ込んだ。私の顔面は傷病者よりもきっと蒼白であったろうに。当たり前である。腋窩動脈の下流側の断端は開きっぱなしである。そんなことも気がつかないのは無謀な研修医だったからであろうか? 傷病者はこの出血に驚いたようだ。しかし日頃から教え込まれていたが「意識のある患者の前で狼狽するな。患者はそれで不安が増して時に暴れたりするので危険だ」ということを思い出した。自分は「あ、あぁぁ ・・・こっ、これは・・平気ですよおぉぉ。大丈夫だねぇ・・」と力なく患者に向かってつぶやいた。
ああ、果たせるかな、自分も脚立に乗り、その宙ぶらりんの傷病者の傷を診るはめになってしまった。歯車は左腕のわきの下にザックリと突き刺さっている。周囲に血糊は飛び散っているが、あらたに外部に持続して噴出してくるような出血はない。意識はかろうじて返事をするぐらいで、ぐったりして顔面蒼白である。歯車と傷口の間をかき分けて創腔をみようとしてもじわじわ血液が染み出してきてよくみえない。ガーゼで拭きながら徐々に歯車を逆回転させて食い込みをはずしていった。するとドクンドクンと動く索状物が見えた。お~っとぉ~、きっとこれが腋窩動脈であろう。これが破綻したらあっという間の大出血だぁー。とても研修医1人で手に負える現場ではなさそうだ(と当時は思わなかったのが恐ろしいことである)。
今でいう外傷初療の常識では、「四肢、体幹に食い込んでいる歯車はそのまま抜かずに、周りの機械を分解して歯車が食い込んだまま傷病者を救出する」のが正しい。そしてその分解は消防やレスキューなどの専門家にまかせて、医療従事者は近寄らないというのが鉄則である。これは二次災害をおこして傷病者が増えてしまうことを予防するためである。これは安全管理の鉄則である。そりゃそうだろう、傷病者が増えたら次の救助者の負担が倍増することになる。ところが、「モーゼの十戒」で海上に道ができたように、突如人垣の間にサーッと道ができたなら、自分が夢遊病者のようにそこを進んで地上4mの足場に向かったのもやむをえない。でも何で現場に消防やら警察がいなかったのかな? もしいたなら「若造は引っ込んでいなさい」と諌められたかも知れない。そうすれば自分は「夢遊病者」にならなくてもすんだのであろう。あぁ今、考えたらぞっとしてきた。
病院の救急車で現場の工場につくと、工場長らしき人が「おぉ助かります。すみませんこちらですと」いやに天井の高い現場まで案内してくれた。現場は本当に地上4mくらいの足場であり、左上腕を機械の歯車に巻き込まれてまさに「宙ぶらりん」状態の工場職員がうんうんと唸っていた。幸い周囲に飛び散っているような大出血はない。傷病者周囲の人だかりが私の到着を見ると、ささーっと動き、自分の前に導入路がひらけた。まさにモーゼの十戒で海の中に突然道が開けたような印象であった。しかし「ち、ち、違うんだ。自分はそんな実力があるような大それた医者じゃない。ただの研修医なんだ」と叫びたい心境であった。まあ昔の話で、しかも田舎での事である。若造が立ち入るには荷が重すぎる場面ではあったが世の中はきっと大らかだったのだろう。でもその時は頼れるものは自分しかいないと身震いがした。「こんなことするのは初めてなんだけどなぁ・・」と口の中でつぶやきながら医者とは因果な職業であると実感したのである。