ということで、最近の脅威であるエボラ出血熱も、潜伏期の長さの違いこそあれ、発病した時の「高ウイルス血症」の症状は同じなのであろう。この間、日本にもエボラ感染者が入国したと騒ぎになったが、症状が発熱、倦怠感、頭痛くらいだと確かに風邪なんだかエボラなんだか分かりはしない。このウイルス血症に伴う症状(発熱、倦怠感、筋肉痛など)をエボラを引っかけるためのスクリーニング項目にするにはなんら役にも立たないような気がするが、しかしそれはやむを得ないだろう。もっとも蔓延国からの帰国者と限定して絞り込めばもう少し精度が上がるかもしれないが、それにしてもウイルス性疾患の初期症状はほとんど共通しているので、精密検査のモダリティーをもたない市井の開業医では手も足も出ないのである。外来をしていて高い熱が出たと言って来院する患者は多い。しかしその他の症状を聞いて「え~と、あとは頭痛と筋肉痛と腰が痛いですね」といわれても「だからそれがどうした」と言いたくなるのである。<o:p></o:p>
昔、教科書に急性肝炎の症状で初期症状のところに「感冒様症状」と書いてあった。当時はこれの意味がわからなかった。のちに理解したがこの症状はまさにウイルスが体内に侵入した直後の生体の反応なのである。つまり前述の高熱、全身倦怠感、筋肉痛、頭痛などの症状なのである。これはHIV(所謂エイズウイルス)の研修を受けていたころにも学んだ。HIV感染直後は一時的にウイルスが増殖し血流中を回るためこのような「高ウイルス血症」症状が出現する。その後は7~8年なんら症状はなく次第に免疫不全状態に陥るのである。HIVに限らずどんなウイルスでも感染すると直後は身体の中でウイルスが増殖するため、大抵この症状が出現するようだ。考えてみれば風邪でも、インフルエンザでも、ウイルス性胃腸炎でも、急性ウイルス性肝炎でもHIVでも、ウイルス感染初期の症状は共通しているのである。<o:p></o:p>
ここのところ「昨日38.5℃の熱が出た」といって来院する患者さんが多い。その時に症状をいろいろ聞くのであるが、感冒系ならば咽頭痛や鼻水が随伴症状としてみられる。またウイルス性腸炎なら腹痛や下痢などの消化器症状がみられるのである。すこし厄介なのが発熱直後の来院の場合、これら随伴症状がないことも多く、さてどこをどう調べたらいいのかの取っ掛かりがないのでお手上げのことも多い。大体秋口から冬にかけては風邪やインフルエンザが、そして年明けごろはウイルス性腸炎が時期的に多いので何となく頻度的に診断も可能である。ところでウイルス疾患の熱の出方はほぼ共通しているような気がする。その症状は高熱、全身倦怠感、筋肉痛、関節痛、腰痛、頭痛などである。患者さんがこれら症状を述べても何ら診断の取っ掛かりにもならず役に立ってくれない。<o:p></o:p>
当然、縫合後は汚染創だったので感染が心配である。ドレーンは入れておいたのでとりあえず毎日は包交が必要である。ところが酔客のほとんどは旅行客である。いつもこのパターンであり明日には帰るため縫合後の当院通院ができない。「帰宅したらすぐに近くの病院に行ってくださいね。傷は感染するおそれがありますよ」ときちんと話はする。まあほとんど覚えていないのであろうが、いずれにせよその後の創の様子をフォローできないのはこちらとしてもとてもつらいのである。自分の処置した傷は、たとえそれがとんでもない酔客でどんなに迷惑をかけられようとも、きちんと治ってほしいと思うのである。まあ患者のためというよりも自分の処置のしかたが正しかったかどうかの確認といったほうがよい。で、この患者の経過は知らないが、縫合する時、麻酔があまり効かなかったのは患者の酒が強かったのではなく、どうも麻酔薬のアンプルの残量からすると局所麻酔薬を通常の半分しか使っていなかったようなのである。大昔のことなので自分もよく覚えていないが、これが意識的か無意識のものなのかは神のみぞ知るところである。でもきっと神様は許してくれると思うのだが・・・。<o:p></o:p>
付き添いの友人に、説得を頼んでもラチがあかない。すぐに眠りこけてしまうのである。友人も泥酔しているので役に立たないのである。しまいに「先生、もういいですから勝手に縫ってください。もし暴れたら注射でもなんでもいいですから眠らせて黙らせてやってください」と。この友人も無責任である。しかたがないので先に別の患者を診察していたら、時々この男は目を覚まし「おいおい、俺をほっとくのかい? 治療はすんだのかよ?」とか言い始めるのである。「では縫合してもいいのですか?」と聞くと、「まてよ!考えさせてくれよ、患者の権利だろ」と馬鹿みたいである。結局数時間このやり取りの繰り返しであった。結局、少し酒が醒めたところでようやく縫合することになったが、やれ「俺は酒が強いから麻酔は効かないんだ、たくさん使えよ」とか、「手を抜かずに丁寧にやれよ」とかうるさい。案の定、縫合の最中は「痛いよ、痛いよ」とだらしがない。今までの勢いは酒が入っているせいだろうか?<o:p></o:p>
患者は近隣ホテルの浴衣を着た宿泊客である。しかも大分酔っぱらっている。それで喧嘩になったりで来院するご本人はエキサイトしていることが多かった。診療するこちら側には何ら関係はないのに、診療中、患者は強い口調でこちらにもあたってくるのである。例えば、「転んでぶつけたのですか?」と聞くと、「転んだんじゃねーの、転ばされたのっ!!何回言わすんだ」と言った調子である。何もこちらは怒鳴られる筋合はない。ぐっとこらえながら「この傷は縫わないとダメですね。縫いましょう」というと、「はっ?縫う? オイちょっと待ってくれ、治療方針は俺に決めさせてくれ」と・・・。しばらく説明しても泥酔しているので居眠りをして聞いていない。起こして返事を聞いても「うるさいなぁ~もう少し考えさせてくれよー」と言いながら、居眠りをしてしまう。そうこうしているうちに待ち患者のカルテの山はどんどん高くなっていくのである。
そのコンパニオンさんで思い出したが、そこの病院は観光地にあり、特に夏場には人口が3倍にも膨れ上がった。近くにはホテルがたくさんありシーズン中は大抵夜になると酔客のケガや旅館の浴衣を着た急病人がひっきりなしに訪れたのである。自分が当直したある夜では夕方5時に救急外来にいくとすでに数人が待っており、そこから翌日朝の8時まで患者は途切れることなく、睡眠はもちろんのこと食事や休憩なしに翌朝まで患者を診続けたこともあった。当然、翌朝そのまま自分の通常業務に突入したことも1度や2度ではなかった。確かに辛かったし今ではとても厚労省に認められるシフトではない。しかしあの時の経験はためになった。ありとあらゆる疾患や外傷を経験した。そして本当の意味での「疲労困憊」という言葉を経験したし、そのため精神力も強くなったような気がする。今であれば若い時のいい経験と思えるが、その時はずいぶん腹が立つような患者が多かったと感じる。<o:p></o:p>
話を聞くと、その女性はコンパニオンさんで近くのホテルの宴会で酔客とダンスをしていたそうだ。酔った男性は足元がおぼつかなくなり、転倒しかけたその瞬間自分の前歯がこのコンパニオンさんの前額部に刺さったのだという。傷は深いが出血も多くはない。そして歯も折れたりして創部に残留している様子はなさそうである。さて困った。ここで「human bite」は創感染が多いなどという記載をみてしまったものだから思案したのである。もちろん傷は数時間以内に縫合したほうがよい。しかし縫合すると前述のように感染を起こす恐れもある。さて今、縫合したらよいか、あるいは開放創処置にして、後日二次的に創縫合したらよいか迷った。結局、十分創感染がおこるであろうことを説明し消毒だけして帰宅させた。そして数日後、外来で縫合したのであった。その後は特に変化なく順調に経過して抜糸して終了した。今でも「あの時は最初から縫合したほうがよかったかな」と答えがでないのである。傷口が綺麗に治るには早めに縫合したほうがよい。でもあの「human bite」という記載は今でも頭の中にこびりついて忘れないのである。<o:p></o:p>
<o:p> 傷が数日後、化膿するかどうかは、なんとなく傷口の状態をみたり、あるいは受傷機転や受傷原因を聞いたりすることにて大よそ見当がつくようになった。前述の動物の噛み創は感染しやすさとしてはトップであろう。また顔や頭のケガでは思ったよりも感染は多くなさそうである。これは組織への血流豊富なところは止血に難渋することはあってもその後の感染は少ないようである。これは血流が豊富イコール白血球の遊走が潤沢であり、このことが細菌感染を抑えてくれるのだと理解している。若かりし頃、外国の文献を読んでいたら、感染しやすい受傷形態のところに動物の噛み創に続いて「human bite」と記載されていた。えっ? ン? 人間の噛み創・・・なんじゃこれは?と思っていたが、その直後の病院当直である夜のことであった。前額部に噛み創のある妙齢の女性が来院された。みると噛まれたというよりも歯が刺さったような創であった。
外傷による創の治療であるが、まず初期は出血を止めることである。その次はいかにその場所の機能を温存しながら修復してあげることである。つまり指などぎりぎりぶらさがってくっついているような深い傷でも、いかにもとに戻すかを考慮するのである。大昔、東北地方の田舎の病院に勤めていた時の話である。いかにも「その筋」とわかる人が、左の小指の末節骨から切断したケガで来院した。切断した指先も持参した。「あ~、どうしますか?ちょっとこの指つなぎ合わせるのは無理だと思いますよー」と言ったところ、「な、なにいうんだ、つなぎ合わされちゃ困るんだ、創だけ縫ってくれ」とのこと。そういわれたので指先の断端形成をして縫合した。処置も終わり「この切断した指先どうします?こちらで処分しておきましょうか?」と言ったところ、「じょ、冗談じゃない、この指が大事なんだ、返してくれ」と・・・。切断された指先をお返ししたがその後その方は二度と病院にこられなかった。今あの方はどうしているのだろうか? 傷は感染しなかっただろうか? というかあの「落とした」自分の指はどうしたのであろうか? たぶん「落とし前」に使用したのであろう。<o:p></o:p>
昔、外科研修中の話であるが動物といえば、牛の角に刺された傷をみた。以後やはり創感染を起こされた。傷口の感染だけならまだしも、ペットとして飼っていたアライグマに噛まれてそこから破傷風になった人を診療したことがある。目の前でけいれんを何回も起こされ血圧が280まで上昇した時は往生したものである。結局1か月間、鎮静剤を使って何とか凌いだが大変だった。また塗料を噴射するジェットガンを近距離から誤って太ももに刺入した人も診療した。塗料が皮下組織の深いところにまで入り込んで結局ひどい蜂窩織炎を起こされて2か月近く排膿が治まらなかった。組織深くまで雑菌や異物が入るといえば高速グラインダーで作業中、手背部を擦った傷を診た。これも異物が皮下組織の奥にまで拡散したのか、以後著明な腫脹と疼痛を伴う蜂窩織炎を併発された。膿瘍を認めるようになってから創を切開開放してやはり毎日、生理的食塩水で洗浄処置したが治るまでに2か月近くかかった。<o:p></o:p>
この前、犬に指を噛まれた患者さんが来られた。結構傷は深かったが噛まれた直後の来院であり、創内をよく洗浄し消毒したのでそのまま縫合した。指先の細かい所なので感染予防のドレーン(誘導管)は入れなかった。しかし3日目より傷口の痛みではなく、指全体がズキズキと痛みを感じ腫れてきたのである。慌てて数本抜糸して圧迫してみると傷口から膿がドロッと出てきた。残念ながら術後の創感染である。こうなると創内を生理的食塩水で毎日洗浄する必要があるのだ。この洗浄がまた痛いので気の毒である。最初から傷口は縫合しないで開放にして毎日傷の消毒をしていればよかったのかもしれないが、創口があまりにもパックリ大きかったので縫合してしまったのである。それにしても動物の噛み創はおそろしい。口の中に色々な雑菌がいるのである。<o:p></o:p>
子供の顔の切り傷は小さいものやまゆ毛の中のものでは、将来的にはほとんど目立たなくなることが多い。必ず「傷は多かれ少なかれ残りますよ。もし将来目立つようであればその時形成外科で修復することも可能ですから」と話すようにしているのだが、過剰に落胆する親御さんも多い。あまりにも毎日「先生、この子の顔の傷は残りますか? 目立ちますか?」と聞かれると、こちらも少々辟易してくる。気持ちはわかるが、数年後の創部瘢痕の程度など毎日同じように聞かれても答えられるはずがない。でも将来的にトラブルになるといけないのでその都度、説明する。 「将来的に傷が残るかどうかよりも、今、傷がくっつくかどうか、あるいは傷口が化膿してひらいてしまうかどうかのほうが先決です。まずは傷が治ることを心配しましょう。傷が残るかどうかはまず、ここのハードルを越えてからです」とお話しする。しかしここまで毎日話してもあまり効き目がないようである。 「傷は治って当たり前」と最初から思われている様子でありこちらとしては辛いのである。<o:p></o:p>
子供の顔のケガで時に縫合が必要になることがある。顔の部位としては皮膚の下がすぐ骨である頬やまゆ毛の部分であるが、ここは傷がパックリと割れて開きやすい所である。もちろんテープなどで傷を寄せて張り合わせ治癒するまで7~10日ほどそっとしておいてもよいのである。しかし子供では「そっと」傷口を管理することは難しい。おとなしくない子では、数日後にはテープが剥がされて結局は「創部の安静」が保てず傷は瘢痕治癒して残ることになる。したがって縫合したほうが傷の安静が保て、結果的に傷痕はきれいになりやすいのである。しかし親御さんの反応は複雑である。「では、傷は縫いましょうね」というと「え~縫うのですか・・」とがっかりされ、逆にリスクを伴うのであるが「テープ固定にしましょう」というと「あ~、軽くてよかった」と安堵されるのである。これは間違いである。処置の種類如何で傷の軽重を判断するのは正しくない。その後の創の経過で判断いただきたいのであるが、なかなかご理解はいただけていない。<o:p></o:p>
今回の受賞のスピーチで一番驚いたのは、彼の仕事に対する情熱とモチベーションである。それを彼は「anger(怒り)しかない」と言っていた。この法廷闘争でのことを言っているのであろう。技術者が大きな研究や発明を継続するにはその成功報酬の対価を引き上げることが重要であるといっているのであろう。一昔前、自分の研究者イメージは、新しい分野を開拓し研究に没頭し世情には疎いようなイメージがあった。でも世情に疎くても世の中が研究に没頭できる様に周囲からサポートしたり温かく見守ってあげたりしていたようなイメージがあった。まあ実際はそうでなかったかもしれないが、現代では中村教授の一連の法廷闘争をみて、研究者も研究以外の所で労力やエネルギーを必要とされる時代なのかと驚いたのである。しかしもっと驚いたのは「とりあえず」決着のついた法廷闘争のあとで、しかも華々しいノーベル賞受賞のスピーチでの質問に対し「怒りです」といった言葉になんとなく違和感を覚えたのである。<o:p></o:p>