本日午前中のみにて平成24年の診療を終了いたします。今年もいろいろとお世話になりました。今年は怪我をしたり、年末になってノロに罹り散々な目にあいましたが、何とか休診することなく1年がすぎました。皆様方におかれましても新年を健康に過ごせますようお祈りいたしております。
尚、平成25年の診療は1月4日より開始いたします。
名器ストラディバリが1600年代に作られて、調整、修理が重ねられ何人ものプレイヤーの手を経て現代でも生き続けている。数百年前の木材が立派に生き続けて鳴っているのである。そして人々はその音色に酔いしれているのである。名器とはそういうものである。歴史的にスチール弦のギターは1833年に作られ始めているので、ギターというものの寿命がどのくらいなのかは未知数である。まあバイオリンのような寿命はないのかもしれないが、それでも名器として生まれたものは、その管理方法しだいでは未来も名器でいられるはずである。だからその名器を代々引き継いだ「管理人」の思いというものが重要になってくるのである。おおげさではあるが彼の所有していたD-45もこれから何人ものプレイヤーの手を経て後世の人々を楽しませてくれるというpotentialを持っていた。しかし今回の残念な結末でそれもついえたのである。自分が今一番悲しく思うことは友人Mの最大の思い入れが闇に葬られたことである。とにかく残念であるとしか表現のしようがない。(この項終わり)
【後日談】
実はしばらくしてから、彼の新居に知らないうちにD-45が戻っていたそうである。たくさんあるギターケースのひとつにわからないよう忍ばせてあったそうである。どうも盗まれたのは姉上の勘違いということにするための犯人の行動らしいと姉上は言っておられた。戻ってきて、めでたしめでたし、というわけでもない。犯人は知らない間に出入りできる内部事情に詳しいものである。不気味である。「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」」
彼が知ったら激怒するようなとんでもない結末になった。姉上は「弟が不憫で・・・」といった。受け止め方は様々である。私は不憫とは思わない。極めて残念、無念としかいいようがない。彼も自身のことを人から「不憫」といわれることは望んでいないはずである。むしろ彼は自分が人からどう思われるかということよりも、望んでいたD-45の「行く末」が思い通りにいかなかったことを悔しがっているだろう。同感である。それにしても犯人は間違いなく内部の事情に詳しい者なので、彼のD-45に対する思いの丈を知っているはずである。通りすがりの物取りであればいざしらず状況を十分に知っていながらこのような愚挙がよくできたものだと憤りを感じる。このようなものは楽器という道具としての意味ばかりでなく調度品としての価値、骨董的価値、または文化遺産的な価値など様々な意味を持っている。自分個人的には道具以外の価値がつくことはその市場価値が不当に吊り上るので好ましいとは思わない。しかし残念ながら現実にはそれら「付帯的価値」のほうが現在ではかなり大きくなってしまっているのである。
彼が生前何度も言っていたのは「楽器として価値がわからないコレクターの手に渡したくない」ということである。本来であればSさんに引き継がれるはずであった。しかし今回の盗難騒動である。これは「価値のわからないコレクター」以前の問題である。おそらくは彼が恐れていたことよりも、もっともっと悪い結末になってしまったのだ。盗品はおそらく闇に埋もれて2度と出てこないかもしれない。価値の分からないコレクターの手にすら渡らないかもしれない。あのギターの価値を認めるものが寄り集まって「すごいなぁ~、これいいなぁ~、この高音の倍音の量が・・・」とか「腹に響くような重低音が・・」などという価値観の共有作業ができなくなる。彼がもっとも望んでいたこの共有作業はへたをすると未来永劫不可能になるかもしれない。だからあのD-45の所有者は未来へ遺産を引き継ぐ「管理人」でないといけなかったのである。彼はそれを望んでいた。
彼が亡くなって2ヶ月が経過した。彼の姉上から連絡があった。「弟のパソコンのHDやら音楽DVDやらと一緒にD-45が盗まれました」と・・・。彼は手持ちの沢山のギターをすべて壁から吊るしてそれを眺める毎日を夢見ていた。そこで新居を探しそのような広い壁のあるマンションを見つけて亡くなる直前に引越していたのである。私は新居には行っていないのでどこなのか知らないが、親しい友人たちの何人かはすでに訪れていたようである。沢山あるギターの中からD-45だけを盗んだのは、やはりどう考えてもよほど内情に詳しいものの犯行である。彼はかなり生真面目で几帳面であった。絶対に遺書は書いてあるはずである。ところがPCのHDも盗まれたのでこれはもうわからないだろう。姉上にとってDVDやらHDは弟の思い出のすべてがつまったものだからそれは痛手であろう。しかし私にはそのことについて何の痛手もない。ショックであったのはD-45の盗難である。
最近自分が出席する葬儀というものは自分と同年代かそれより年下の人のものが増えてきた。自分だって明日はどうなるか分からない。救命センター勤務時代もいつもそう思っていた。二十歳そこそこのバイク事故で心肺停止の若者などいくらでも診た。昨日はあっても明日はないというそんな刹那的な毎日をおくったこともあった。さてMとは今まで10回もあっていない。そんな人を友人と称してよいものか、またその人の葬儀に出席する自分は場違いではないのかと奇妙な感覚がした。でも葬儀というものは最初から「儀礼」であるのだから、わざわざシャチホコばった儀礼的観念で捉える必要もなかろう。私のほうが少し年長であるが中学時代、お互いは知らぬが同じ行動範囲に生息し、同じ生態をもった生き物であった。それだけで戦友みたいなものである。彼の「D-45をもらってください」という最後の言葉だけにはうなずけないが、彼の薀蓄のほとんどにはうなずけたのである。それだけでもう十分である。ギターを介した彼とのつながりも葬儀に出席することで何となくここでterminateできるだろうと思えた。それぞれ生き残ったものは明日がある。引きずることはやめようと考えていた。ところが・・・。
それにしても「吉田さんにD-45あげますよ」という彼の最後の言葉は不思議であった。彼は私よりも高校時代からのフォーク仲間であるSさんに託したいとブログにかいている。自分は彼の人生の最後のほうのステージに少しだけ顔をだした、いわば「新人」である。そんな自分に彼が「分身」を託したいと本気で言ったとは到底思えない。おそらくもしかしたら最近、そのSさんとなにかトラブルでもあったのか、いやあるいは低酸素血症で十分な判断ができなかったため自分が病室を去る際にそう口走ったのかもしれない。そんなこんな想いをめぐらしながら彼のお通夜に行った。遺影は彼がギターを弾く姿であった。いい顔をしている。よく考えてみれば彼のことを友人と書いたが、その割には実際に会ったのは10回にも満たない。しかしネット時代なのであろう、常にネットやメールでやり取りをしていると実際は会わなくとも彼の人となりは理解できていた。おそらく中高時代にであっていたらもっと緊密な関係になっていたであろう。趣味・嗜好や方向性は似通っていた。
彼はちょうどその1ヵ月後に亡くなった。彼が分身であるD-45を私に託したいという気持ちは嬉しく思った。でもそれはまさに「重い」ものであった。あれは彼の想いや薀蓄が集約されたこの世で唯一無二のものである。果てしない「Martin D-45探しの旅」の末にようやくたどり着いた、彼の目にかなった逸品なのである。ところで私のプレイスタイルはOM系や000系のfinger styleであり、フラットピックでDreadnoughtをガシガシ弾くことは余りしない(分かる人には分かる専門的内容ではあるが)。したがって自分はD-45をすごいと畏怖するものの、あまりD-45を自分で保持し弾きこなしたいとは思わないのだ。しかもその上、あの彼のD-45を自分が引き受けても、きちんとした「次世代へ引き継ぐ管理人」に自分がなれるなんて到底思わない。「吉田さん、D-45あげますよ」といわれて、「自分には重すぎます」と言った言葉の裏には、めぐりめぐったこのような思考過程があって発せられたものなのである。
自分がすすめた治療法が彼にとって本当に満足できるものであったかどうか考えさせられた。何回か入退院を繰り返したが、今年の8月、たまたま自分の元勤務先である大学病院に入院した。勝手知った元勤務先だったのでお見舞いに行った。彼はかなり呼吸苦もあり疲弊していたが、酸素を吸入しながら自分の来訪を喜んでくれた。顔色はさほど悪くはなかった。しかし彼から、「入院直前までは顔がどす黒く浮腫んでいたんですよ」と聞かされ病状の進行が考えられた。縦隔リンパ節への転移による大静脈の圧迫である。呼吸苦もあったが、彼といろいろと他愛もない話もした。そしてしばらく話をして辞することにしたが、私が病室を出るその時、彼は唐突にいった。「吉田さんに僕のD-45あげますよ」と。一瞬「えっ?」と間があいた。ほんの一瞬だったが自分には猛烈に長い時間が経過したように思われた。そして自分の唇から出た返事は「ダメです。それは重すぎます」であった。そうとしか言いようがなかった。彼がその言葉をどう受け止めたかは知らない。しかし結果的にそれが彼と交わした最後の言葉となった。
その後、抗癌剤の副作用でかなり苦しんだものの、一時期リンパ節転移も消えて具合はよかった。ただ抗癌剤の副作用は彼にとってかなり耐え難いものであり嘔気、嘔吐、倦怠感、口内炎がひどくまったく数週間は動けなくなるような状態であった。彼は言っていた。「こんなに耐えがたい状態が何クールも続くのであれば抗癌剤はやめる。治療はすべて放棄して緩和ケアにしたい」と相談された。可能性が少しでもあれば諦めずに続けるよう話をしたが、今思うと自分の発言はある意味無責任だったかもしれない。彼に行なわれている抗癌剤治療はゴールがない。今この辛い毎日が行き続ける限り今後も延々と続くのである。やがてそれから抗癌剤の副作用で辛い思いを何度もしながら、病状は確実にゆっくりと悪くなっていったのである。彼の言葉が生々しい。「抗癌剤なんて完全に治すためのものではない。辛い副作用で社会生活が全く営めない状態になる。ところがただ延命期間のみ伸ばすので医学的には「効いた」という。しかしそれは患者不在の医療である」と・・・。彼の生の声である。とても自分には痛く響いた。
それから、途中経過の報告や今後の相談事も含めて何度か彼と会った。ある時「そういえば、吉田さんにはまだD-45弾いてもらったことがなかったですよね。今のうちに是非弾いてみて下さいよ」といわれた。確かに他のギターは弾かせてもらったが、肝腎のD-45だけは弾いたことがなかった。しかし前述の如く自分には強烈なD-45の刷り込みはないし、実際自分のプレイスタイルにはあわない機種なので是が非でもすぐ弾きたいという感覚ではなかった。まあそのうちに機会があれば弾かせてもらおうと思っていたのである。そしてここにきて「今のうちに」といわれたものの、「今のうちに」という言葉の意味は「自分が生きているうちに」ということである。そう言われて「はいそうですか、じゃあ今のうちに」という言うわけにはいかない。しょうがないので「病気が治ったらそのあかつきに弾かせてもらいましょう」と彼に告げた。結局、彼のD-45に触ることは以後なかったのである。
Mの病気が見つかったのは2年前の夏であった。悪性疾患であった。発見時はすでに広範囲に転移しており、手術的治療は不可能であった。抗癌剤や放射線の治療が提示されたが、彼はその選択に困り、自分のところに相談したいので会ってほしいと連絡してきた。話を聞くとかなり進行はしているものの、たまたま別の検査で偶然見つかったため、まったく症状はなく元気である。元気だからこそ自分の現在の病気の重さが実感として湧いてこない。だから「手術ができないくらい進んでいる」といわれてもピンとこないわけである。自分はoncologistではないので詳しいことはわからない。しかし抗癌剤治療をすすめた。それから彼の壮絶な闘病が始まったのである。これ以上詳しくは彼個人を同定できなくとも、個人情報のこともあり詳細は省きたい。彼は自分の行く末のこともそうであったがD-45のことをとても心配していた。まるで子供の将来を案ずるかのようであった。
また彼は次のように自分に言っていた。「もし自分が死んだら、このD-45が中古ショップに渡り価値の分からない単なるコレクターの手に渡ったら悲劇だ」と。また彼は彼のブログの日記に「人の手に渡るなら価値の分かっている高校の同級生であるSに託したい」と記した。同感である。最近の中古ギター市場は、ピンからキリまで全部を一緒にし、それをビンテージと称しその価値基準を意図的、かつ不当に操作してしまったようである。したがって本来楽器は道具であるはずなのだが、このような骨董市場を成立させてしまったためプレイヤーばかりでなくコレクターが増えている。彼はいつも「弾きたいならいつでも連絡くれれば弾かせてやるよ」といっていた。それはおそらく同じ価値基準をもった同好の士に共感してもらいたいからである。その気持ちは分かる。自分が所有していたら、価値の分かる人に弾いてもらって「はぁ~、すごいね、これすごい音だー」と感心してもらいたい。薀蓄を共有することは所有者(管理者)としてこの上ない喜びなのである。
あのD-45オタクの彼の目にかなったものである。それはすごい音であろう。彼の表現では「ガラスを割ったような音」と表現している。とても気に入っており彼自身の最も大事でかけがえのないギターとなった。それは数度にわたる買い替えの旅を経てようやく手に入れた逸品なのである。そこまでいうと「いくらぐらい?」と知りたくなる。言わないほうがいいであろう。ただ目安にはならないが一番高い値札がつくものでは1968年製のD-45は今国内では400万円以上の値がつく。彼が手に入れたD-45の話を彼からよく聞いた。「このような逸品は今後もずっと生き続け残っていくのだが、これは自分の所有物というよりもむしろ今この時代において自分はこのギターの管理人でしかない。以後はだれかの所有になるのであろうが、その人もただの管理人に過ぎない」と奇しくも加藤一彦が1968年製のD-45を所有した時に言った言葉と同じであった。いいものに出会った者の思いは同じなのであろう。
さて結局、新品でも中古でもよく鳴るものもあればダメなものもある。職人が一つ一つハンドメイドで作った古い時代のギターであっても必ずしもいいわけではない。だから手にとって自分で見て、弾いて調べる必要がある。そして店で気に入ったものがあった場合、それを一度逃がすと二度と出会えないのである。同じ年代に作られた同じ型番のものでもまったくの「別物」になのである。友人Mがその結論に到達するまでには何回もD-45を買い換えたそうである。「これでいい」と思っても、次にもっといい鳴りのものに出会うと欲しくなるのである。そうやって彼は随分散財したらしい。しかしながらついに彼は自分のオタク度の目にかなうだけの逸品に出会ったのである。1991年製のカスタムD-45でトップはジャーマン・スプルース(あとでMartin本社に彼が確認し判明したがイングルマン・スプルースだったそうだ)、サイド、バックは上質のハカランダであった。彼は糸巻きをグローバーに、そしてブリッジピンとブリッジは象牙に交換している。