もしも自分も救助の一翼を担いたいのであれば、撮影などしないで少しでも現場の整理や、初期消火を手伝うなどすべきであった。映像撮影するのはその人の特権的行為ではない。その人の特殊技能でもない。そのことが救助の一助となるものでもない。ましてや消防隊員に「早く(救助に)行け」などと指示することなど何ら建設的なものでもなく、むしろ救助のプロに対して失礼な言葉であると感じた。最近では携帯やスマホなどで現場に居合わせたものが簡単にエセカメラマンになれる。そしてその映像に頼っているTVのニュース番組もあることから、まさに必要悪とも感じる。確かに今回はいきなりの現場での飛行機墜落炎上なので初期消火も救助も居合わせた人には難しいであろう。しかし昨今の「誰でもみんながカメラマン」という風潮をみるにつけ、応急救護の啓発カリキュラムを変えなければならないと痛感している。
よくTV報道のカメラを通して映像をみていると、自分の見た目が正しいものと錯覚してしまう。TVカメラは正義ではない。TV映像の撮影中に「撮影やめなさい」とか「入らないで下さい」とか制限されると、自分のみていた映像が遮断されるため時々「不快な」思いを感じる。でもそれは概ねこちら側の勘違いなのである。現場での救助を最優先するなら、彼らが現場で一番活動しやすいように周囲が協力すべきなのである。だから今回、撮影者が注意されたところ「中で助けを呼んでいる。早く行け」というのは自分が救助の流れを妨げているということを自覚していないことの表れなのである。まあ確かに映像が中断されないほうがTVを見ている側にとってありがたいのである。しかし現場で救助活動している者にとっては迷惑なものなのである。その迷惑なものが「早く助けに行け」と指示するのはまさに余計なお世話なのである。
7月26日、府中飛行場を飛び立った小型飛行機が離陸直後、府中市内の住宅に墜落した。痛ましい事故である。この模様は付近にいる人がその墜落した住宅の火災状況を動画に撮影してTV放映されたのである。TVでのニュースではこのような動画があると事故の状況が詳しく報道されてわかりやすい。ところが直後に消防隊員か救急隊員かの声であろうか「危ないので下がっていてください」と注意されたのである。この撮影した人はプロの報道関係者ではなく近所の一般市民である。しかし撮影者はこの消防隊員の指示に返事をせず、「中から声がした。早く言って助けてよ」と消防隊員に指示したのである。その返事の仕方に少し違和感を覚えた。消防は救助のプロである。まずは現場の安全確保と二次災害の予防が鉄則なのである。このような現場でのやじ馬は被災者の救助にとって百害あって一利なしなのである。
昔から蓄えられた「貯金」と磨かれたセンスにより、小説を書き始めて数作目であったとしても、すぐに才能が開花したのであろう。もともと彼は芸人なのである。しかも、そこそこ中堅どころとして売れているのである。センスはもともといいのであろう。ゴマンといるお笑い芸人の中で日の目を見ない人は数多い。お笑いの世界で「中堅どころ」というのは成功しているという部類なのである。結局、芸人でも小説家としても成功したことになり、やはりかれは才能の塊であるとしか言いようがない。その彼が「小説家に転向か?」と聞かれ、「自分の軸足は芸人であり、今後も芸人をやめるつもりはない。お笑いの仕事の合間に小説を書く」と言っている。それもすごいのである。たぶん彼ならどちらの職に転んでも今後も成功するであろう。ただしその言葉も通常「嫌味」に響くところがそう感じなかったのはお笑い芸人のコメントだったからだろう。たぶん和田アキ子も古館一郎も彼の才能を羨んで少し皮肉を言ったのであろうと解釈する。この2人の思考背景には「芸人のくせに」という感情があったかもしれないと思うのだが。でもすごい芸人がいたものだ。
芸人のピース又吉氏が芥川賞を受賞した。古館一郎氏が「芥川賞も(格が)落ちた。本屋大賞でもいいのでは?」と酷評した。そして和田アキ子氏は「私も結構太宰とか読んでいるが、あの(又吉の)小説は少しもいいとは思わない」とTVでコメントしたらしい。しかしとりあえず自分はすごいことであると思っている。まずはこの賞は本職の物書きが自分の全生活を打ち込んで書いても、なかなかとれるような賞ではないのである。近年「純文学」という枠を超えて、確かに直木賞との棲み分けがないような気もするが、それでもやはり難関な賞であることには間違いはない。又吉氏は今回の中編小説が1作目か2作目くらいであるとのこと。もちろん担当編集者と何回もやりとりをして随分書き直しはあったようである。それにしても駆け出しの小説家である。それが受賞したのだから、やはりこれは大したものなのである。たぶんそれは今までの彼の人並み外れた読書量と、桁違いの文章咀嚼力(読解力)のなせる技であると思う。
この52歳の女性の死因は当初「一酸化炭素中毒」と発表されていた。不思議である。そうであるとしたら、同じ客車にいる人は全員一酸化炭素中毒になっていなければおかしい。一酸化炭素はそれ自体は有毒ガスではない。酸素を運搬するヘモグロビンに、酸素の代わりに結合してしまい酸素を体内末梢に送り届けられなくするわけである。つまりこれで亡くなるとしたら所謂「酸素欠乏」が病態である。特に閉鎖空間に長いこといた状態で一酸化炭素を吸い続けると徐々に頭痛やめまいを起こし時間をかけて症状が進行するのである。数回吸っただけで死亡するサリンのような瞬殺性の毒ガスではないのである。誰が言った死因か知らないがどうも「ど素人」の発表のようである。マスメディアもいいかげんである。後日ようやく、気道熱傷による窒息死と発表しなおされたがこれなら理解できる。いずれにせよ日本の乗降客の多い鉄道でこのような事件を起こしたということの波紋は大きく絶対に許されるべきことではない。テロやセキュリティ問題も含めて社会に与えたダメージはいろいろな意味で大きく、鉄道だけは標的にしないという日本人の性善説的コンセンサス?が崩壊したともとれるのである。残念である。
この巻き添えで亡くなった女性は、今まで無事に暮らせたことのお礼にお伊勢参りに行く途中であったそうである。もちろん道中安全であるという保証はなにもない。江戸時代から「お伊勢参り」は遠国の村々から講を募り代表者をたててまでお参りに行かせるということがなされてきた。もちろん信心ということもあるが、途中から他国を物見遊山で見物する旅行という風潮になってきたらしい。昔は途中で盗賊や追剥にもあう危険があったろう。それにしても「お伊勢参り」ということで免罪符のようなものがあり、旅行中の一団は色々有形無形の便宜がはかられるようなこともあったという。無一文に近い形で出立し、伊勢詣での旅と言うことで途中の土地において、食料や路銀を恵んでもらうことも「おかげ参り」といわれ行われていたようである。江戸時代と現代とでは比較にはならないが、今回の惨劇では神仏のご加護がなかったのかと寂しい気持ちになる。
「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。」 辞世の詩(うた)を残して華厳の滝に入水自殺を遂げた旧制一高の学生、藤村操は有名である。明治時代の話である。場所は華厳の滝であり新幹線車内と異なり、周囲に人はいない。入水後、遺体を引き上げる作業やらで警察関係者には迷惑をかけたのであろうが「巻き添え」で死んだ人はいない。同じ自殺でも根本的に周囲への迷惑度や社会へ与える影響は違うのである。ガソリンをかぶった後、周囲の乗客に「あなたも早く逃げなさい」と言ったそうである。周囲の人を巻き込みたくなかったら、あんなところで火をつける行為など最初からしないほうがいい。直前の精神状態が不安定であったことがうかがえるが、周囲の人を気遣うくらいの理性があるのであれば、火をつけるのは思いとどまってほしかった。それにしても死因は不確かではあるが、52歳の女性が巻き添えになったのが痛ましい。
またこれほどの惨事がおこったという報道により「日本の鉄道のセキュリティは甘い」という事実が世界に露呈したのである。しかしながら、とはいえ鉄道なのである。気軽に乗り降りしたいし下駄ばき感覚で利用したい。セキュリティなどという大げさなものではないが、旅客機も当然であるが、国民の共通認識として「特に鉄道内でこんなことしちゃダメ」というコンセンサスがあるものだと理解していた。やはりここでこんなことをするのは「反則」なのである。でもこの事件をみられたら今後テロのいい標的対象にもなるんじゃないかと心配になる。これで鉄道のセキュリティが厳しくなったら、それはそれで安心であり「世界一安全な乗り物」ということにはなるが、利便性が著しく低下することになってしまう。今までパンドラの箱は閉められて「予定調和」で成り立ってきた安全神話であるが、蓋が開けられその弱点が世界に露呈したのである。この男には死に至るまでにいろいろな葛藤があったと思うが罪は重い。悲惨な事故ではあるが、正直な気持ち「あなた何故こんな所を選んだの?」と思うのである。もちろん同情などまったくできない。
事実、その日の新幹線ダイヤは大幅に狂い、接続する交通機関の利用者も含め、東京から九州にいたるまで何十万人もの人に多大な迷惑をかけたことになる。また傷者も数多く、1名の死亡も確認されている。警察は殺人の容疑で捜査もすすめたようである。さて開業以来、死亡者0という神話を継続していた新幹線であるが、ついにここで死亡者が出てしまった。もちろん鉄道本来の事故ではないのであるがこの「0」という神話は死亡者が出た現在では消滅したことになる。開業以来、安全第一を考え業務に携わってきた職員はきっと大きく落胆しているに違いない。彼らにより積み上げられてきた努力の結果である「誇り」は、本来の鉄道事故ではなくこの1個人の不祥事により意図的に消滅したのである。
6月30日なんとも痛ましい事件が起きた。それは東海道新幹線の中でガソリンをかぶり自ら火をつけて自殺をしたという事件である。自殺とは「人間のみが持ちうる崇高な個人意思決定権であり、かつそれを行使し具現化することである」などと言われることもある。しかし現実社会ではこれは反社会的行為とみなされ、社会的になんら保障も補てんもされるものではない。その証拠に生命保険はおりないし、未遂に終わった際の治療費も医療保険の対象外である。さてこのような車内という閉鎖的空間で衆人環視の元で行うことの意味が何かあったのであろうか? このような場所でおこなえば巻き添えの死傷者がでることも分かっているだろうし、電車はとまるので数多くの人に迷惑をかけることになる。
現在の法治国家である日本では、いずれにせよ「恫喝」することは違法行為である。つまり理由はどうあれ特定保護者の方が、サービスを提供する看護師に対して「恫喝」したという事実があれば、それはそれでもうアウトなのである。理由の如何ではない。病院でも最近モンスターペイシェントの問題があるが、病院で患者に恫喝されたらすぐ警察に通報するところも多くなってきた。今回の事件はそれでもたぶん一定期間以上は耐えてきた上での総辞職なのであろう。この総辞職を管理できなかったということで組織の管理者が責任を負うことにはなるがそれで問題が解決するわけではない。今回、サービス受給者はサービスを受けるのが当然の権利とばかりにその現場職員を恫喝するのではなく、不足している人員に対してもっと感謝し有効利用してあげる気持ちも必要であったかもしれない。残念だが結果的に自分の首をしめることになった可能性が高い。プロの職業人の技術に恫喝的クレームを継続的につけたのだとしたら、誰しも勤労意欲を失うのは目に見えている。たぶん看護師たちはこう言ったかもしれない。「そこまでおっしゃるのであれば自分たちはとてもご期待に沿える技術も知識もありません。ここでの仕事はこれ以上できませんのでやめさせていただきます」と・・・。極めて残念な結末である。
前にも述べたが、看護職はプロ集団である。人員が足りず多忙すぎたとしても、そこで自分が目の前の仕事を放棄して退職したら残された現場がどうなるかはよくわかっているのである。にもかかわらず6人全員が一斉に辞職する道を選んだのは、どうしても管理者の人員配備・補充に起因するものではないと考えるのである。やはり特定保護者における恫喝に近いクレームが継続して行われたことにつきるのではないかと考える。自分の子供への愛情や心配はもちろんよくわかる。それに対して処置がおくれたということであれば、文句の一つも言いたくなるのはわかる。しかし看護サービスは機械が行うのではなく「人」が行うのである。継続する恫喝的クレームがあったとすれば、サービス内容が一層委縮するのは当然ありうる。結果的にクレームは、自分が享受するべきサービスの一層の低下につながることは容易に想像ができるはずである。
少しぐらいのクレームは、それに対応するカリキュラムもきちんと存在しているはずである。それにもかかわらず辞職するに至るのは、いたとしても一人二人であるならまだ話はわかる。しかしながら今回6人全員が、しかも同時に辞職するというのは極めて異例のことであり問題の根は深い。TVでは元高校教師であるというコメンテーターが言っていた。「これはクレームをつけた保護者をせめてはいけません。十分な人員を配備しなかった管理者がいけないのです」と・・・。まあ管理者の責任にしておけば一番事なかれ的なコメントで波風もたたない。でもこれは的外れである。ここの養護学校だけではなく、看護師の慢性的人員不足はどこの施設、医療機関でも日常茶飯事なのである。「看護師をすぐに補充しろ。しなかったのは管理責任者が悪い」というのは簡単であるが、ことはそう簡単には解決するはずではない。
それなのに、プロ意識を要求される看護師が一斉に退職したということは、やはり同業者からみれば「よっぽどのこと」があったとしか言いようがない。話によれば特定の保護者から、処置の数分の遅れや、処置のやり方などについてかなり恫喝にちかいクレームを継続して受けていたそうである。現場を目の当たりにしていないので恫喝なのかどうかは断言できない。しかし医療職は現場において患者や家族などからクレームをつけられることは、その理由が正当か不当かは別にして、まあよくあることである。かといって自分が辞めたら自分の担当している患者に対してその必要であるサービスが提供できなくなるので、患者の病状を考えるとそう簡単には辞めようという動機はおこらないはずである。通常の看護師であればきちんとした職業意識はもっているはずである。