実は昔、自分はそこの団体も受講して指導員の資格も持っていた。しかし自分は当時のAHAでの指導員の資格も米国で取得していたが、AHAの内容の方がかなり洗練されていた。特に教える内容もさることながら、いかにして受講生に習得してもらうかも重要でありその教え方のストラテジーをかなりAHAの講習で学ばされたものである。日本のその団体の講習に参加したときは驚いた。年配の女性の指導員2名であったが、まるでオイコラ式だったのである。号令をかけてピシッと動かないと機嫌が悪く時折、大声で怒られた。20年前のことであるがまだ覚えている。経験したことないが、なにか戦前教育のような印象だった。今になってみると、もしもこのような形の指導法、指導内容によって日本人の応急手当意識が強固に形成されているのか思ったら怖いことである。それは自分が講演の席上で一般市民に指摘された「応急手当は勇気のいることである」ということの原因につながっているのではないかとも思えるのである。
ところが聴講されていた方は誤解をされたのであるが、自分の話し方も足りなかったのであろう。あれから10年、随分とAHAの応急手当の講習内容も日本に定着し、実技講習や教え方も洗練されてきたようである。自分が講習をやっていた当時と比べ雲泥の差の進歩なので嬉しい限りである。自分が講習をやっていた当時(20年前ごろになるが)は、あまり根拠のない方法が○○大学の麻酔科の教授がそう勧めているからと、かなり大きな某団体でもそれに準拠して一般市民に指導していた。たまたま何らかの会合でその団体の役員の方と話す機会があり懇談していたら、「えっ、あなたはAHAで習ってきたのですか? あそこは敵ですから(あなたも敵ですね)・・・」とはっきりいわれて自分は面食らった記憶がある。当時は心肺蘇生やら応急手当はここの団体の独壇場であった。それを揺るがすものはけしからんというような雰囲気であった。
現場に居合わせた人が傷病者に対して病状の悪化を防ぐ目的にて行なう処置のことを応急手当という。一般の人が傷病者に対して手を差し伸べるということは、どうも「勇気がいる」行為のようである。かれこれ10年前くらいだろうか、どこかの講演にて現場の傷病者に声をかけて、もし必要なら手当をすることが当たり前の感覚と世の中のシステム作りをする必要があると述べたら、会場から「一般の人が応急手当を行なうことはすごく高いハードルがあり、ものすごく勇気がいることだ。まったく現状を把握しておらず認識不足である」と辛辣な批判を頂いた。自分の意図は元来日本では「餅は餅屋」「生兵法は怪我の元」と救急車がくるまでの間の傷病者に対して「触らない事、動かさないこと」を是としてきた。それを乗り越えるためにはきちんとしたシステム作り(つまり正しい応急手当指導、普及啓発)を行う必要があると述べたつもりだった。結局、今までの普及啓発のあり方が問題であるとの趣旨だったのである。ところが・・・。
母親が帰宅して、その知り合いとやらに直で電話番号を教えてしまった件を伝えた。「あーその人なら知っている」と・・・。まあよかった。もし得体の知れない人だったら気持ち悪いことになる。それにしても、昔自分はよく104を利用したが、一言一句でも文字が異なれば「そのお名前ではお届けがありません」と冷たく突き放されることがよくあった。改めてその違っていたたった1字を言い直すと「はい、それならございます。電話番号は・・・」と教えてくれる。なんだか昔のほうが情報管理が厳しかったようである。おそらく有料になってからはサービス向上させたつもりなのか、情報が不正確な場合はわざわざ周辺情報を検索し、近い番号を教えているのかもしれない。正直いって医療機関から個人情報を教えさせることを目的として104が医療機関の電話番号を顧客に案内するのは如何かと思う。個人開業のクリニックとはいえ情報漏洩の許されない医療機関なのである。しかも診療中のドタバタ時にクリニックの公用電話にかかってくる面識のない人からの「吉田○○さん(母の名前)の電話番号教えて頂戴な」は困るのである。なんだか104のサービスはいいんだか悪いんだか・・? 余計なお世話していると思うのだが。
その母親の知り合いとやらは、母親の自宅の電話番号を教えろというのだ。声色からすると高齢の女性であり「振り込め詐欺」の手先であるような印象はない。しかし今の世の中、個人情報の取り扱いには慎重である必要がある。特にこちらは医療機関である。あまりべらべらと気安く個人情報を自分が知らない見ず知らずの人に伝えるのも気が引けるのである。しかも相手はこちらの電話番号という情報を知っているが、こちらは相手の連絡先を知らない。ここで情報を供与した後、電話を切られたらこちらから相手に連絡をつける術はないのである。これはとても危険なのである。本来であれば「そちらの電話番号を教えていただき、母親が帰宅したらこちらから掛けなおさせます」とするのが現代では正解であろう。しかしその母親の知り合いという方の話しぶりはかなりご高齢でもあり、こちらのこの面倒くさいやり取りに対応できなさそうなのである。やむなく直で母親の電話番号を教える羽目になった。トホホである。
先日、診療中にクリニックに電話があった。相手はどうも母親の知り合いのようである。自分の母親はクリニックの2階に居住しており自分専用のアナログ電話回線を保有している。その母親の知り合いはどうも母と連絡を取りたかったようであるが電話番号を忘れたので104の電話番号案内に尋ねたようである。しかし母親は自身の電話番号を電話帳に登録していない。ということは104でしらべても「○○様のお名前ではお届けがありません」と冷たく突き放されるはずである。ところが母の住所とクリニックの住所が同じなので、たぶん104の案内係は「気を利かせて」クリニックの電話番号を教えたのかもしれない。あるいは母親はその知り合いに「私はクリニックの2階にすんでいる」という情報をすでに教えていたかもしれないので、その知り合いは「クリニックの電話番号でもいいから教えてくれ」と案内係に言った可能性もある。いずれにせよ診療の最中にかかってくる個人的な電話の対応はちょっと面倒・・・。
今回、心斎橋で起こった「死にたいけど死に切れないため、他人を殺害した」という不条理な事件から、自殺論や日本人の宗教的な来世成仏についてまで脱線してしまった。話をもどすと、結局は、景気が悪く経済的困窮をきたし経済破綻寸前?の我が国でも、努力さえおしまなければなんとか生活していけるということが、奇しくもオウム関連の二者と、そして英国人英語教師殺害犯の逃亡生活から明らかになったことである。昔、「はっぴぃえんど」という伝説のバンドがあった。通称「ゆで麺」と呼ばれるアルバムに収録されているが「春よ来い」という曲の一節にこんな歌詞がある。『家さえ飛び出なければみんな揃って「おめでとう」が言えたのにどこでまちがえたのか?』 たぶんどこかで歯車が違ってしまったのだろうが現代であっても努力次第でやり直しは可能なのである。
明治時代に華厳の滝に入水した旧制一高の藤村青年の辞世の文がある。『萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。』 この事件のあとに後追い自殺が何件かあったそうである。昔、歌手の岡田有希子の飛び降り自殺もショッキングであった。アイドル絶頂期での自殺である。この時もまさに殉死のような後追い自殺が多発した。日本は昔より自殺に対するタブー感が少ないような気がする。キリスト教・イスラム教が固く自殺を禁じているのとは対照的に、例えば五穀断ちによる入定にて即身仏になれるという観念があり日本での古くからの信仰からもこのことが伺えるように思う。もちろん藤村青年や岡田有希子の自殺の原因は日本に根ざした宗教的なものではない。来世での救済や成仏を目指して往生を図った昔の人と、近現代人の自殺を同一視はできないが、日本人の祖先の記憶(DNA)が来世の理想郷へ誘っているのかもしれないと思うと何となく納得もできるのである。
茨城の荒川駅?や秋葉原での路上事件やら、あるいは少し前ではサンシャイン通りエスカレータ事件、大阪の小学校での事件やら今まで時々「自分が死にたいが死に切れず、死刑になれば死ねるために無差別に他人を殺害した」というような猟奇的事件があった。正当性や汲むべき事情も見当たらないが、このような犯人がどのようにして自己と他人との関連性を因縁づけているのかその病理は複雑である。「死にたいので自分は死ぬ」とう行為は少なくとも他人を巻き込まないような自己完結型であれば私は否定はしない。しかしながら現実的には自殺という行為は反社会的行為として位置づけられており、それに伴う種々の経済的損失や周囲への波及効果を考慮すると、やはりどうみても社会的には認められるものではない。救命センター勤務時代、年間数百人の薬物による自殺企図の患者が搬入されてきた。そしてそれら薬物使用の患者のほとんどが軽症であり数日以内に退院していく。本来、自傷によるものは健康保険の適用にならず自費で請求すべきであるが、何かしらの病名をつけて保険適用にしている。そうしないと彼らは未払いのまま退院していくのである。まさにこのことも社会がかかえる複雑な病理なのである。
震災後は雇用状況もより厳しくなったとはいえ、30代の屈強な男性が懸命になって仕事をさがせばなんとか生活できるであろうことが、このオウム関連の菊池、高橋容疑者の逃走劇で今回明らかになったのである。指名手配犯の場合は「警察から逃れる」ということが最大の生活への原動力になっている。今回の心斎橋殺害容疑者は、自分が死のうとして死にきれず他人を巻き添えにしたのであるが、自分が死ぬという覚悟さえあれば「警察から逃れる」ということよりもはるかに強いmotivationであるため、なんとか頑張れば間違いなく生活していけるはずなのである。ということは就職先がみつからないとか、世の中が不景気だとか社会の歪みに理由を求めることは極めて不合理である。やはり行き着くところは本人の個人的な精神性の問題と、自身の社会適合性に帰する問題だと思うのだが。
しかしながら、その一方、オウム関係の指名手配者の菊池容疑者や高橋容疑者であるがこの17年間ずっと逃亡を続けてきている。しかも2人とも他人になりすましたとは言え、立派?に社会に溶け込んで真面目に働いて生活できていた。職場の同僚の話では「仕事は真面目でしたよ」と異口同音に聴く。また震災前ではあるが英国人英語教師リンゼイさんを殺害した市橋受刑者は2年もの間、逃走し工事現場の寮にも滞在して仕事をこなしてきたのである。彼らの生活状況は基本的には世の中から自身を隠さなければならない状況でありながらもなんとか働いて生活「できて」いたのである。おそらくは今回の心斎橋での容疑者は住むところもなく、働き口もないといって世をはかなんでいたが、警察から指名手配されていたわけではないため「逃げながら働く」という難しい状況ではなかったはずである。
6月10日に大阪の心斎橋で、出所後の男が通行人2人を包丁で殺害するという事件を起こした。もちろん凶行に至った汲むべき理由などはないが、出所して仕事もないし住むところもないので人生を悲観し死のうと思って大阪まで来て、そして包丁を買ったとのこと。確かに今の不景気の世の中で就職口をさがすのは大変なことである。だからといって見ず知らずの人を道連れにすることにおける理由は何もない。亡くなった方もさぞ無念であろう。確かに現在日本の経済情勢は最悪である。結局、事業仕分けで埋蔵金が出てくると思いきやほとんど効果が上がらず、ダム工事中止したとしても工事続行よりも金が掛かりそうで、そこに大震災やら原発事故やらでより一層の財源が必要になってきている。現在の日本はやはり財源がないので、結局は消費税アップという話になり、ますます日本の企業力は低下して新規雇用も難しい。確かに仕事口がなくて途方にくれるという気持ちも分からないではない。しかし・・・。
結局、自分は今回の総選挙のTV中継を全部みてしまった。なかば罠にはまった感もある。しかしなかなか感動的であり根性のあるスピーチには感心させられた。でも自分にとっては基本的にこのAKB総選挙はどうでもいいことである。「その4」でも書いたが、自分は音楽(CD)の売り方に対して批判的なのである。小学生の頃、自分はラジオでアメリカンポップスのヒットチャートを聴いていた。期待が膨らんだ。「アメリカってどんなところなんだろう? どんな生活をしているんだろう? TVのルーシーショーでみるような生活なのか? そして毎日こんな音楽ばかり聴いているんだろうか?」 夢は膨らむばかりである。なけなしの小遣いどころか小学生の自分にはラーメンが2杯くらい食べられる価格のEPを買ってもらっては毎日毎日同じレコードに針を落として大事に音楽に触れていた。ところが今では投票用紙のおまけに音楽がついてくる世の中である。そして自分はそれら「余分な」音楽CDが捨てられている現実をみると悲しくなるのである。いっそのこと投票用紙のみを販売してくれたほうがよっぽどいい。音楽をダシにすることは自分には抵抗があるのだ。この方法を異常と思わない世の中の流れにも違和感を感じる。
昨年、やくみつる氏は言った。一人ひとりは悪い子ではないと前置きしながらも「ファンの諸君、目を覚ませ。どんなに応援しても彼女らは君達にはふりむかないぞ」と・・・。まさにその通りである。彼女達は、ファンの愛の深さとは、心情的な応援の度合いではなく購入されたCDの枚数なのであると全員が知っているのだ。夢を売るのが芸能人ではあるが現実的にはCD売ってナンボでものである。順位がおちたら地獄であるという現実的な彼女達の手のひらの上で夢見るファンが踊らされているような感もするのである。おおぜいの人が一人1枚のCDを買おうとも、一人の人が何十枚ものCDを買おうとも順位を争う彼女達にとってはどちらでもいいことなのである。一人の人が月の給料をほとんどつぎ込んでCDを買っているという社会的怪奇現象は、自分の芸能界生き残りにとってはほぼ無頓着であるのだ。このような枠組みを仕掛けたプロデューサーは自分のタクティクスが大当たりしていることのみが正義であると感じ、現実に起こっている社会現象の有様はファン一人ひとりの自己責任であるのだからどうでもいいと解釈しているに違いない。
昔、びっくりマンチョコというのがあった。中に入っているキャラクターのシールを収集したいがために、買ったチョコは捨ててシールだけを集めている子供が多かった。今回の選挙も投票用紙をより多く集める目的で、このチョコと同様、CDが逆に付録になってしまっている。確かにCDは1枚あれば聴き込める。何十枚同じCDを持っていても何の役にも立たない。中には一人の押しメンのために給料をつぎ込んでCDを百枚単位で購入した輩もいるときく。昔、自分はレコードの時代、なけなしの小遣いで1枚のLPを買い大事に聞き込んだものである。音楽がまず最初にありきであった。しかし今回の現象は、音楽ありきではなく投票用紙を集めることが目的であり、つまりは音楽の堕落とそれを伝えるメディアの多様性が浮き彫りになってきたのである。同じ選挙でも議員の選挙では、お金をつぎ込んで投票用紙を買ったなら選管法違反になる。ところがAKB総選挙ではお金をつぎ込むことが応援することの正義につながっているわけで、これはもちろん違法にはなっていない。しかしながら何となく、なんでこれが選挙なの?と複雑怪奇な思いなのである。