インフルエンザが局地的に流行している。先日小学生の生徒さんが39℃の熱でみえられた。上気道炎症状と扁桃肥大・発赤、そして扁桃にはフィブリンの白苔がついていたので間違いなく「扁桃腺炎」であろうと思って抗菌薬(細菌に効く)を出そうとした。そうしたらお母さんが「クラスでインフルエンザの子が何人かいます」というので、まさか?と思いつつも、インフルエンザ迅速キットで検査した。するとなんと結果は陽性!! 時期はずれであり臨床症状も異なるし診察のみの診断は難しい。そろそろシーズンオフであったが検査キットが数個残っていたので助かった。
マツダミニチュアカーコレクター日本一(あっ 「世界一」といわないと怒られます)のT先生より昨日またカキコがあった。上野の科学博物館でフェアがあるそうだ。この先生、マツダの実車はもちろんのこと、子供がのるようなコイン入れると動くマツダの遊戯車も持っている。恐ろしい~。下記に彼のメールを記す。
吉田先生、お褒めの言葉まことにありがとうございます。急ではありますが、本日4月27日、上野公園で歴代のロータリーエンジン車(コスモスポーツ、サバンナ、ルーチェなどなど)80余台(実車)が大展示されます。ぜひお出かけください。
前にオタクの件をかいたら、そのミニカーオタクのT先生からカキコがあった。
特にマツダ系のミニカーでは日本で3本の指に入ると昔いっていたので、今では日本一だろう。とにかく彼には医者のような因果な職業は早く辞めてもらってミニカーショップを開業してもらいたい。できれば巣鴨の駅近くの線路沿いがいい。彼からのメールで最近の活躍ぶりが伺える。以下コピペ参照されたい。
本日4月22日より上野の国立科学博物館でマツダのロータリーエンジン40年を記念した特別展示が開催されます。その前座で私のミニカーコレクションの一部が展示されますのでお時間がありましたらお出かけください。あっ先生、そろそろ入札時間なのでそれではまた。
新曲(といってもウン十年前の曲ですが)アップしました。
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今の中高は知らないが、自分が中学の時の授業では教師によって随分個性が違っていた。生徒が騒いで授業を聞かなくとも、ただ自分の世界に入り込んで一方的に話して帰っていく教師、あるいは背筋をのばし、まっすぐ黒板をみさせて、よそ見や頬杖をつこうものなら殴る教師などさまざま。ただ一方通行の授業は退屈極まりないので、だから授業中騒いだのかもしれない。ある意味、「殴られる授業」の方が確かに授業は聞いていたかもしれない。でも苦痛だったなあー。
退屈と苦痛どちらがいいか? いずれにせよ現在の教育手法ではなさそうだ。
なぜコーラがカルピスに勝てなかったかと言うと、それは・・・と思い切りためておいて「それはカルピスが初恋の味だからです」と言った。その瞬間、会場は大爆笑だった。当時カルピスのキャッチコピーは「初恋の味」でした。「日本人の初恋の味は甘酸っぱくなくてはなりません。コーラの炭酸の強さでは初恋になりませんので」と真顔で続けたのでまた大爆笑。まあ本当の理由は流通経済の別のところにあるのだが、これで彼はまた自分のペースに引き込んで最後まで自分のつまらない内容の講演を生徒に聞かせたのだ。講義や講演の責任はすべて演者に帰するでしょう。
ところがその翌年の講演会であったが、今度はどこかの偉い人なんだろうが、その講演者はやたらとさばけていた。話の内容は今でも覚えているが、当時の流通経済の話でよく考えれば「硬い」話である。少し話しが退屈になるとみるや、客席に質問するのだ。「コカコーラが日本を席巻し当時の日本の清涼飲料水を駆逐するが、唯一コーラが勝てなかった飲み物があるが、それ分かりますか?」 答えはカルピスだったそうだ。
講義や講演で退屈なものも多い。これはすべて演者の責任。昔、高校時代、外部講師をよんでの全校講演会が年に1回あった。ある年の講演の演者は、とにかく口の中でぼそぼそと聞き取れない声で、話し方は抑揚がなく、内容もつまらない話で起承転結がなくて生徒達は飽き始めていた。しだいにおしゃべりが多くなり会場がうるさくなってきたところ、ついに講演者は「あ~~! お前ら、うるさい! こんなうるさいところで喋ったことない、不愉快だ!」と怒りはじめた。でも、謹聴しろというほうが無理だろう。私はおしゃべりなどはしていなかった。でもいびきをかいて寝ていたようだ。
結局、がらりと講義方法を標記の手法にかえた。まず「怒らない」「長所を褒めまくる」「笑いをとる(ice braking)」「答えを自分で言えるように道筋をつくって誘導してあげる」「受講生と往復でやりとりのある講義にする」「講義中に考えさせる時間をもうける」などなど。そうしたら、評価はがらりと変わった。自分の講義は「面白い」「わかりやすい」といわれるようになった。しかし実は自分は不本意である。自分の本来のキャラではない。まあしかしこのような教育技法は世の中の流れであろう、しょうがないか。
成人型教育技法は、専門学校や大学教育などにおいて実践される。しかしあまり自分はこのような「小手先の講義」は好きではない。むしろ怒鳴るけど親身な熱血指導なんてのが、昔TVでよくみた学園青春ドラマのようで自分にはあっている。救命士の養成所で一度かなり、怒りもするけど身をいれて熱心に講義や実習をやった時期があった。でも受講生からの評価はさんざんだった。「すぐキレる」「自分の自慢話にしか聞こえない」などなど・・。意図するところ評価がかくも異なるとは・・・、とほほ。熱血青春ものなんて過去の遺物である。
前回、モチベーション(動機)は才能に勝るとかいた。つまり、自分がこれからやろうとすることに対する理由である。これは原動力になる。昔、医学部時代、我々よりも10歳も上の同級生がいた。一度、就職し社会人を経験されていた。それから医学部を受験して医者になろうとしていたわけだからよほど腹をすえてかかってきたのだろう。一方なんとなく受験戦争を勝ち抜いてきた我々とは原動力が違った。後年、彼は言っていた。「医者になるため会社をやめたんですから・・」と。確かにほとんど「動機のない」自分とパワーが違うわー。
例えば数学や物理学や、あるいは芸術などの分野の習得にはもの才能と「ひらめき」が必要になる。ところが少なくとも学生時代における医学の習得には才能は必要ない。したがって資格を得るには、そこそこの努力で成しうるものと信じて疑わない。救命士の養成所で入所直後の最初の講義の時に、不安そうな受講生の気持ちを和らげるつもりで「医学習得、国試合格に才能はいらない。ただ努力すれば道は開ける」と連呼したら、「先生、才能はいらない、いらないって言うけど、そんなに俺らアホにみえますか?」と誤解された。そんなつもりじゃないのに、どうも見下したととられたようだ・・・嗚呼。
せんだって、久しぶりに看護師学校の入学式に出席した。過去、看護師学校での講義も受け持ったこともある。看護協会の専門コースでの講義も受け持ったこともある。また救命士養成所では15年教鞭をとっていたこともあるし医師国家試験予備校でも年数回講義をしていた。おおむねこれらの学生や受講生は「まじめ」である。このような専門教育の場では、将来のゴールが決まっているだけに最初から学生のmotivationがしっかりしている。途中、勉強についていけそうにもない生徒にもお目にかかるが、たいてい努力次第で必ず目標は成就できる。あとは教育側がいかに飽きさせずに継続学習させられるかがポイントとなる。面白くなければ誰もついてこないのは当然。
昔は居合わせた市民が応急手当を・・なんてことは一般的ではなかった。むしろ「素人が触ったらいかん」という風潮だった。ところが今では応急手当をするのが当たり前どころか、医療行為であるAEDがなんの訓練も受けず、何の許可もなく一般市民が用いることができるようになった。というか、これは「市民が用いることができる」のではなく「市民が用いるためのもの」である。これの使用が数分遅れるだけで助からないことも多々あるからなのだ。
今年の7月に週1回勤続15年教鞭をとってきた救命士養成所を辞した。昔は年2回の国家試験だったが今では年1回なってしまった。研修生は全国の消防本部から派遣されて全寮制で勉強しにやってくる。それこそ黎明期は、「もし落ちたら、とても地元には帰れない」という悲壮感を漂わせている研修生もいた。もちろん今でも同様にかなりの重圧感はあろう。ブログに合格報告のカキコがあり喜ばしい限りです。この場で合格者の方にエールを送ります。おめでとうございます。地元では皆さんの活躍を心待ちにしているはずです。