裁判は、その資料収集や状況聴取のやり方が後から見た(retrograde)あら捜しのようなものなのである。過去の特定の時点で「こんなことをしたから(あるいはしなかったから)、だから患者は不利益を被ったのである」という理由付けを何が何でもしたいのである。「24時間365日片時も離れてはいけません、寝てもいけません」ということを強いるということは、どうやら医師の労働基準はおろか人権なんてものもどうやら考慮しなくてもいいようなのである。自分は、はたでみていて居た堪れなくなったし、また同時に「明日はわが身かも?」とぞっとしてきた記憶がある。ここまで物理的に不可能なことを求められるのでは、患者さんとの信頼関係の構築は難しい。
そういえば昔、自分が勤務していた病院の同僚の先生が医療裁判の渦中にはまったことがあった。原告側の弁護士が最終的に患者のなくなった部署である集中治療室の看護記録を逐次眺めながらこう述べたそうである。「ここであなたはトイレにいきましたね・・・、ここで約30秒ほど患者のそばから離れましたね・・・、このときあなたは仮眠していましたね・・・」などと患者の状態が安定しているときにもかかわらず患者の傍らに接していなかったことを状態悪化の原因として意味付けようとしたのである。つまり24時間365日当該患者の傍らに医師がいなければそれはすべて義務違反となるといってきたようなのである。
裁判が無罪か有罪か、どちらが正しいのかを論ずるつもりはない。しかし法廷で論ぜられるときの根拠として、あまり正当ではない理由を持ち出されてきてそれで被告の未来が左右されるのは空恐ろしいことである。医学的根拠を立証したり、医学的関連性を証明したりすることはかなり難しいことである。しかし自分のような、しがない街の開業医ですら疑問に思う医学的根拠を理由にして人の未来を左右しようとしているのはとても見ていられないのである。自分も鑑定医をやったことはあるが確実である事象については「ある」、不確実な事象については「自分は知らない」「分からない」「可能性はあるが立証の根拠はない」と応えるというスタンスでやってきた。検察が「低血糖症だったとしても、意識は十分に保たれており、合理的な判断が可能だった」と何故言ったのかどう考えても不思議なことなのである。
それにしても、自分が診てもこの原因は何?と困ってしまうような、それほど多彩で判断の難しい低血糖症状を、いともたやすく非専門家である検察当局が「仮に低血糖症だったとしても、意識は十分に保たれており、合理的な判断が可能だった」といいきれるその自信が不思議でならない。その言い切れるだけの根拠はどこにあるのか。おそらくは何がしかの鑑定医を選任してその専門医とやらの意見に基づいた主張なのであろう。このように判断した鑑定医はおそらく多彩な低血糖症状をみたことがなかったのであろうか? とにかく「低血糖症でも合理的な判断が可能」という理屈はおかしい。低血糖状態であれば脳細胞のミトコンドリアが十分機能しないので脳機能は少なからずおかされるはずである。低血糖で合理的判断ができるという根拠がまったく不明なのである。
意識状態が正常になった患者に経過を説明したところ、「・・・そうだったんですか、実はインスリンを打ったんですが、配達の仕事が急に入ったんで食事をしないで飛び出してきたんですよ」と。一連の彼の行動は低血糖状態のものであったのだ。こんな非典型的な低血糖症状なぞ教科書には一言も書いてない。長いこと救急医療をやってきて低血糖発作の患者も随分診察したが、こんな状態などそのときまで見たことがなかった。話は低血糖状態によるひき逃げ事故の裁判に戻るが、地裁の判決は無罪であったそうだ。はねられて亡くなった高校生のご家族の心中はいかばかりであろうか。お悔やみを申し上げます。しかしながらとりあえず有罪、無罪の是非をここで論じるつもりは毛頭ない。疑問に思うのは「医学的根拠」なのである。
処置台の上の傷病者は座位で丸くなって唸っている。眼は開けてキョロキョロして処置室の中を見ているが問いかけても犬が唸っているようだ。診察しようとすると嫌がって診せてくれない。とりあえず頭部外傷痕はなさそうである。診察や検査はさせてくれそうにもなく途方にくれた。とりあえず傷病者のカバンの中を見たらなんとインスリンを発見した。ハッ! そうか・・・と思って、嫌がる患者をスタッフ全員で抑えつけて静脈路を確保した。そこからブドウ糖液を注射しはじめて数分・・・。見る見るうちに患者の状態は改善してきた。「・・・えっ?あれ? ここはどこですか? 僕は何をしていたのですか?」とおとなしくなった。
以前の日記にも書いたと思うが、低血糖状態の症状は多彩である。自分が救急医をしていたときの話であるが、路肩に車を止めた若者が運転席でうずくまり、身体を硬直させて唸っていた。目は開けており周囲をにらみつけて野犬が周囲を威嚇するような状態だったそうだ。救急隊員が問いかけてもウーウー唸るだけで、身体に触れると手を振り払ったり暴れようとしたりしたそうだ。また時に救急隊員の問いかけに応えるのであるが、内容はトンチンカンであり話のつじつまはまったくあっていなかったそうだ。とりあえず車のバンパーが破損しており事故のようだと判断した救急隊は「頭部外傷による不穏状態」ということで自分が勤務していた病院に搬送してきた。
横浜市で2009年にひき逃げ事故を起こしたとして、道交法違反(ひき逃げ)に問われた同市の男性会社員の被告(46)の判決が3月21日、横浜地裁であった。この男性は糖尿病でインスリンの自己注射をおこなっている。運転時は低血糖状態で自転車の高校生をはねて、その後しばらく運転をそのまま続け何km先で捕まったとのこと。検察側と弁護側の双方の主張であるが、検察側は「仮に低血糖症だったとしても、意識は十分に保たれており、合理的な判断が可能だった」と。一方、弁護側は「事故時は意識障害があり、事故を起こしたことを認識しておらず、責任能力はなかった」。としている。
まあ不公平とはいったが不公平は世の常である。3万人のランナーの背中には25万人もの落選者が背負わされているのである。これは25万人もの落選者が、東京の街を通行止めにして走っている当選者のことを羨望のまなざしでみているのであるからしょうがない。いや「羨望」というか自分が走っていることを重ね合わせてみているのだ。まさにシミュレーションなのである。東京マラソンは完走率の高い大会ではあるが、おしくも時間切れで途中関門において収容されてしまう人も多い。収容されたランナーは極めて残念であろうが、それをシミュレーションしながらみている落選者はもっと悔しいのである。「自分なら関門に引っかからなかった。この人のかわりに自分が出るべきであった」と。これだけ応募総数の多い大会では、当選したら完走しようがしまいが当選した人の自由であり大きなお世話である・・・とはいかない。指をくわえて中継をみている25万人もの落選者の想いは、当選者が頑張って走っている時は「エール」となるが、足きり関門に引っかかった瞬間から「妬み」に急変するのである。おー怖っ!
海外のマラソン大会ではチャリティランナーのしめる割合が高いそうである。日本ではまだまだチャリティ意識は根付いていないのかもしれない。しかしながら応募して落選した人に対し「10万円でチャリティランナーとして出場できる」とメールを送ってくるようでは、いつまでも「落ちてもお金出せばで参加させますよ」という誤ったイメージが払拭できないだろう。チャリティというのであればまったく抽選とは別枠として位置づけさせるような提示のしかたが必要であろう。これではチャリティの意識も向上しない。さてランダム抽選とはいいながら特定の人の複数回当選(?)、親子、夫婦でのダブル当選、そしてチャリティといいながら目的意識のはっきりしない応募形式など、いろいろと不公平な印象は否定できない。いっそのこと参加者全員チャリティにすれば不公平感はなくなるのだが。
しかしながら、どうも自分の周りには複数回当選の人を結構みかけるような気がする。まあどうしても出場したい人は10万円払ってチャリティランナーとして出場すればいいわけである。ただチャリティといっても、実際上は抽選による無償ランナーとチャリティによる有償ランナーが並列で位置しているわけで、多くの人は無償のほうを選択するだろう。「チャリティランナーは自分のメッセージをアピールして走ることができる」とあるが、一般の仮装ランナーとどこが違うのであろうか? AKBの某タレントは母親がフィリッピン人だそうで、自分のチャリティ寄金が東南アジアの援助に使われることを願ってのチャリティ参加であった。一般人ではなくタレントならそのようなメッセージもTVで取り上げてくれる。でも一般人のチャリティはただの有償ランナーでありマスメディアは見向きもしない。
今回、親子で当選しただの、夫婦で当選しただのという人もいた。単独応募でも通らないのにそれは何故?と思ってしまう。またネットなどの投稿をみていると「自分は出場3回目ですが・・」などという人がゴロゴロいる。オイオイ、10年に1回の確率が3回もつづくのかいな?と思う。その累積の当選確率は1回目より2回目のほうが、そして2回目より3回目のほうが相乗的に低くなっていくはずである。掛け値なしに3年連続当選は現実的にランダム抽選ではありえない。抽選ではなく何かしらのバイアスがかかっているとしか考えられない。・・・ン? あ でもよく考えると、3回連続当選は1/10の3乗なので1/1000の確率であり、28万人応募なのでこの確率で当たる人は280人はいることになる。そーか結構連続当選者も多いのかいな? う~んよくわからないなぁ(苦笑)。
さて今回の出場ランナーも約10倍の倍率を勝ちえて出場権を手に入れたわけである。以前も指摘したが、過去に一度出場したなら確率的には以後10年は出場できないはずである。これは純粋に確率の問題である。確率の正確性は母集団が大きくなればなるほど正確性が高まる。例えば2人でジャンケンをして、ランダムに自分が勝つ可能性は20回のジャンケンよりも1万回のジャンケンのほうがより正確な確率が得られるということである。その観点からすると応募総数28万人の母集団における確率精度はかなり高く、「1度出た人は以後10年はでられない」という可能性が現実味をおびてくるはずなのである。ところがその統計学的な確率を無視するような結果が続々とみられている。
もちろん被災者の方の打ちひしがれた心情をこのような形で勇気付けられるのは素晴らしいこととである。しかし何となく変な感じなのである。「勇気を与えるため、元気を出してもらうため」という目的は崇高なものと思われるが、でもやっぱり自分には視聴率第一主義の番組作りの思惑が見え隠れするのである。感動したがっている自分の上から『感動の素』がフリカケられ、みごとに『感動ありがとう』と美味しくそれを堪能したなら番組制作者の手のひらで遊ばれているような気もするのだが。どうせなら一般人を使ったハンド・イン・ハンドな完全調和より、タレントを走らせて素の時と違う表情に感心したり、普段は笑いをとっている芸人の頑張っている姿をみているほうがストレートであり自分にとっては「分かりやすい」のである。
今年も東京マラソンが終わった。なんのかんのといいながら朝9時から夕方の4時までずっとTV中継を見続けてしまった。もちろんこの寒い中、現地まで見物にいくつもりなどはない。しかしTVをみていて4万人ものランナーが東京を駆け巡る様は圧巻であった。これはこれで凄かった。それにつけても鼻につくのは番組の「ドラマ仕立て」の脚色である。それぞれのランナーにはそんなに個人的ドラマや感動的なモチベーションなどないであろう。ところが少しでも取っ掛かりをみつけると針小棒大にドラマを仕立て、無理やり「さあみんな感動して下さい」とばかりの演出をしているように感じる。視聴者のほうも「感動をありがとう、勇気をありがとう」などの言葉が平気ででてくるのをみると、普段から感動したがっているのか、勇気をもらいたがっているのか?という感じがしてならない。これら感情は本来は自然発生的のはずであり、仕掛けられて引っ張り出されたのであれば「うまいことしてやられた」と自分は感じてしまう。最近の演出仕立ての番組作りに胡散臭く感じてしまうのはどうも私だけではなかろう。