本日が今年の最終診療日となります。
新年は1月4日(火曜)より平常診療を開始いたします。来年も事故のないように、そして質の高い迅速な医療を心がけたいと思います。
ブログも年末年始はお休みさせていただきます。
では、よいお年をお迎えください。
本日が今年の最終診療日となります。
新年は1月4日(火曜)より平常診療を開始いたします。来年も事故のないように、そして質の高い迅速な医療を心がけたいと思います。
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そんなことをしていたら緊急的な導入などできっこない。途方にくれながら「あぁ、じゃあ結構です。こちらで何とかしますので・・・」といって電話を切った。ふと思い出したのだが以前、医師会で呼吸器疾患の講演会があった。そのとき某医療機器メーカー共催であるのを思い出したが、その会社では在宅酸素療法の機器を扱っているので急いで連絡した。急な呼吸不全で酸素投与機器の貸与を希望することを伝えた。すると「分かりました契約書は後日で結構です。本日すぐに患宅に機器を設置します」との二つ返事。そして2時間後には「設置完了」の連絡を受けた。・・・とにかく助かった。こんなに迅速に動いてくれるとは思わなかった。翌日、担当者が書類をもって来院したので契約書にサインして胸をなでおろした。やはり「対応がよい」ということは会社の売りになる。自分も開業して3年、もう一度患者さんへの対応について考え直さなければいけないだろう。年末のよい教訓となった。
最近、在宅医療で急に酸素療法が必要となった患者さんがいた。「急に酸素が必要」になったのだから急を要することは言うまでもない。外来通院している患者さんでCOPD(慢性閉塞性肺疾患)の方は何人かおられるが、いままで在宅で酸素療法を導入した患者さんはいない。しかもその場合なら徐々に症状が進行するため機器導入の時間的余裕は十分にある。ところが今回は急なことである。そこではたと困った。一時的でも良いから、どうすれば「緊急的」に酸素投与の機器一式が導入できるのであろうか。とりあえず患者さんの担当のケアマネさんにお願いした。「すでに他院で在宅酸素をしているところを紹介しますので、そこに相談してみてはどうでしょうか? ただし契約作業やら点数請求の按分の問題はお互い話し合いの上で・・・」 いやはやこれだと何だかすごく時間もかかりそうであるし、また面倒くさそうである。
ファッションは「我慢」というのは真理かもしれない。昔からご婦人がウエストを細く見せるために腹部をしめつけるコルセットがあったようである。これなどは苦しくてしょうがないだろう。またシルエットを細く見せるために細身のスーツなどもある。きっとこれも動きづらいだろう。「細く見せる」という目的はメタボ体型の自分にとっては確かに理解ができる。しかしメタボ体型の自分が細身のスーツを着たらピチピチのボンレスハム状態になり「サイズ違いのものを着ている」と誤解されること必定である。であるからして元来細身の人が自分を細く見せるのは可能であるが、自分のようなメタボは逆立ちしても細くは見せられないのである。「ファッションは我慢」であろうが、自分の場合はやせ我慢となる。その上、あまり見栄えよくはならないので費用対効果は悪いだろう。見栄えはまず体型のコントロールである。まずダイエットのほうが重要であり、そのほうが健康にもよい。やはり正攻法が一番である。辛い。
昔、街のショーウインドウにサマーセーターがディスプレイされていた。初夏用の涼しげなものである。ところがそれを見て驚いた。そのノースリーブのセーターの首周りはゆったりとはしていたがタートルネックなのである。本来タートルネックは防寒用のものである。ところがノースリーブとの混在は奇妙に感じる。暑いのか寒いのかはっきりしてほしい。まあこれも「ファッション」なんだからといえば話が済んでしまう。しかしそれにしても衣類というのは外気温の身体への影響を緩和するものであろう。このセーターのコンセプトは自分では理解しがたい。ファッションとは「我慢すること」なのであろうか? ああ、そういえば、真夏に暑い激辛ラーメンを食べると食後清涼感をおぼえるので、その類の「矛盾する正反対コンセプト」なのだろうか・・・・、いや、そんな訳はないか。
昼間に月に2回ほど区役所で介護認定会議がある。いつも終了後は午後の診療開始時間に間に合うようにタクシーでクリニックに戻ることにしている。先日、信号で車が止まっている時に何げなく外を見ていたらミニスカートのお姉さんが歩いていた。寒風吹きすさぶ寒い日だった。膝から下はムートン地のブーツをはいており、ああこれなら寒くないだろうなと思った。ところが足先をみてギョッとした。裸足にサンダルがけなのである。つまりブーツだと思ったムートンはいわゆるレッグウォーマーであった。これは奇妙である。ムートンのウォーマーをはくくらいの寒さなら「裸足のサンダル」はないだろう。それともふくらはぎは冷えるが足先だけは火照るという特殊体質か? まあおそらくは「ファッションだから」という言葉で語りつくされてしまうのだろうがどうも釈然としない。
「えっ? 現場にいらしたのに信号を見なかったんですか?」 娘さんは驚かれた。自分は傷病者の救護よりも信号の色の確認が優先するとは思わない。でもまるでそれを責められているかのような感じだった。たぶん歩行者と運転手の過失割合で揉めているのだろう。もし信号が赤で歩行者が横断していたら運転手の責任は軽減される。事故の場合、お金が絡むのでやっかいである。いずれにせよ自分は信号をみていないので「分かりません。見ていません」と正直に答えるしかなかった。その娘さんは残念そうな顔をして帰って行った。自分はよっぽど、あのまま現場によらず立ち去っていたほうが精神衛生上よかったろうと感じた。でも今度同じことが起こっても、また「懲りず」に自分は同じことをするんだろうなぁ~と複雑な思いであった。本当に不愉快で複雑である。
「そのようなことを聞いているのではなく、事故の時の信号は赤、青どちらだったのですか?」 話はどうもバイクの運転手曰く、配達中に青信号で通過しようとしたら、○○さんが横断歩道が赤にもかかわらず横切ろうとしたために起こった事故であると話したようだ。「うちの母は赤信号で横断するような人ではありません。あの運転手は虚偽の証言をしています。さあ、赤、青どちらでしたか?」と詰め寄られた。あの時間帯は歩道も暗く人通りも少ない。第三者は自分だけであった。そんな事いわれても傷病者の救護しか頭にない自分にとって、現場の信号の色なんてどうでもいいことである。なんだか自分が取調べを受けているようだった。
「現場での事故状況を詳しく話して頂けますか?先生の他には目撃者が誰もいないのです」と強い口調で突然言われた。別に警察から今まで事情聴取は受けていない。何だかはじめての事情聴取が警察ではなく肉親から行われているような雰囲気だった。医師の「専門的見解」を聞きにきたのではなく、たまたま居合わせた「目撃者としての事実」のみが期待されているようだった。 正直な気持ち警察にも聞かれていないのに何故こんなことを聞いてくるのか分からなかった。「え~っと、自分が帰宅しようとたら後方から大きな音がしたので、みると交通事故なので自分は現場に急行し○○さんの容態を診て救命センターの治療がよいと判断し、ここに搬送いたしました」と述べた。ところが私の言葉が終わらないうちに「えー、そのようなことはお聞きしていません」と遮られた。
全身状態は安定したが相変わらず認知症の症状は持続した状態で数週間が過ぎた。ある日、娘さんという人が突然私に面会を求めてきた。私は直接主治医ではなかったので特にお話をするような機会はない。ところが私を名指しで面会を希望されている。まあ救急医として現場での活動は当然のことであるので今更挨拶されることも自分は望まない。しかしどうも雲行きがおかしいのだ。しょうがない、会って話を聞くことにした。「はじめまして、○○の娘です」 初対面のこの娘さんの表情は明らかに私に謝意をのべるようなものではなく、少し敵意すら感じられるものであった。通常、初対面の場合、「お忙しいところお時間頂き・・・」とかの前振りくらいはあるだろうが、そうではなかった。「事故の状況なんですが・・・」といきなり用件が切り出された。嫌な予感がした。
自分も救急車に乗り込み救命センターに向かった。初療室で救命処置がなされたが、診断はやはり骨盤骨折だった。まあとりあえず現場での自分の判断がよかった?のと、迅速な救命センターでの対応ができたこともあってこのご婦人は一命をとりとめた。ところがこの高齢のご婦人は、もしかしたら以前からそうであったのかもしれないが認知症を認め現場の記憶が全くないのだ。しかも意思疎通すらも不十分な状態であった。しかしながら救命医にとって「判断・処置を的確になしたために傷病者を救命できた」ということは合格点である。現場で自分の適切な判断がなければこのご婦人は亡くなっていたかもしれない。自分も少しは胸を張ってよいのである。ところが・・・
大学の救命センター勤務時代のことである。夜10時ごろだった。帰宅途中、後方から「ガシャ~ン」と大きな音がした。振り向くと信号機のある横断歩道で、老女と配達のバイクが衝突して転倒していた。夜間この幹線道路は車の走行はあるが、歩行者の通行はまばらである。急いで引き返し現場に走りよった。バイクの若者はすでに起立、歩行も可能であり問題はない。「わかりますか?」 転倒している老女に声をかけた。しかしウ~ンウ~ンと呻るだけである。とりあえず全身を診たら骨盤部に叩打痛があるようである。骨盤骨折は危ない、ショック状態である。救急車がきたので自分の勤務する救命センターに収容依頼をかけてもらった。
先日クリニックの忘年会をやった。恒例というわけではないが池袋のフランス料理屋を利用した。このお店のオーナーシェフのお父上は画家であり、音楽の教科書に載っているような楽聖(音楽家)の肖像画を描いたことで有名である。学校の音楽室に貼られている肖像画のことである。戦後すぐの貧しいころに、このような絵が売れたので食いつなぐことができたといっていた。またシェフが当時コックになりたいと言ったところ「食べてなくなるようなものを作る仕事はとてもいい。なまじ恥ずかしい作品等、残るようなものを作る仕事はいかん」といって大層喜ばれた(?)そうである。後世に残すべき立派な作品だと思うが、完璧を求める芸術家ならではの言葉である。けだし名言といえるだろう。
とりあえず約束の期日まで働いた。身体中、筋肉痛に悩まされた。しかし幸いなことに有機溶媒で頭はやられてはいなかったようだ。いやもしかしたら少しやられていたかもしれない。もしここで働いていなければ浪人せずに大学に入っていたかもしれない(笑)。とりあえず月末にはアルバイト料をもらいにいった。高校生にとっては自分の労働で得られた収入なのでうれしかった。今となっては自分がそのお金を何に使ったのか全く思い出せない。しかし数十年後、路上の標識文字のきらめきをみて、当時のガラスの粉のようなキラキラした物体を思い出したのは意外だった。「触ると死ぬ」という脅し文句のせいで強烈な刷り込みがなされていたのかもしれない。今年の夏は猛暑だったが、あの時の工場の暑さはこんなものではなかった。遠い昔の想い出は、暑さの中の陽炎のように揺らいでいる。
わずか1週間足らずで母親にアルバイト先の労働環境を告げた。「まぁ~、そんな危険なところなの? ひどいわね。すぐに辞めなさい」と言われると思った。しかし反対だった。昔、母は学徒動員で軍需工場にかり出され朝から晩までもっと劣悪な労働環境で働かされたのだそうだ。そして今の若者は根性がない、こらえ性がないと逆にお説教をされた。まあ確かに従業員は毎日ずっと働いているのだ。こちらは期限付きのアルバイトである。しかも小遣い稼ぎであって生活がかかっているわけでもない。彼らに比べれば自分は根性も体力もないことになる。しかしながら自分はポスト学園紛争の三無主義の世代であった。「無気力、無関心、無感動」のデカダン?なので根性などという言葉とは無縁であった。そんなこんなで、まあしょうがない、もう少し働くことにした。