昨日、みかんのお歳暮が届きました。
それをだいたい割って同じ数ずつスーパーの袋に詰めて、皆さんにお配りするはずが、途中でよく会社で一緒に仕事をしてくださる方がいらして、その方の分もあった方がいいかなと思って、やっぱりその方がいいよって話になって、途中からまた分け直したのです。
分けてみると、家族がたくさんいる人にこの個数じゃちょっと・・・と思い、その方はちょっと多くしたり、この後帰って来そうな人が、もしかしたらその個数をチェックするかもしれないと思って、やっぱりこの人はあまり減らさない方がいいかなとか、色々考えて、分けていたのですが・・・・
ふとその時気がついたのは、こういう時に自分の分って多く取れないんですね。自分がみんなと同じ公平に分けるか、あるいは、多少数を変えるなら自分は一番少ない数にするものです。
分けてもらった時は自分が多くても「ありがとうございます」と言ってもらっちゃえるけど、自分が分ける立場になると、多くは取れないと思うのです。
でも世の中そうなってないですよね。
今、偉い人がお金をいっぱいもらうのが当たり前。
自分が偉いから、当たり前。
例えば、本当に政治家が自分たちで法律を作るでしょ。本当にその気持ち(公平感)があれば、世間より自分達の給料を多くできないと思うのですね。普通の感覚ならば。
それが、一般人の給料より何倍も多くもらって、先生と呼ばれて、それでどんどん増税しても平気。この感覚ってズレてますよね。政治家もそうだし、他のお偉いさんもそうなんですよ。
両親のよく言っていた言葉をこの前書いたばかりですが、「自分が要らないものを人にあげるな」もよく言われました。それも私が要らないものを妹にポイポイあげていて、よく怒られていたのですが・・・「要らないものを人にあげるな」も本当にそうだなぁ・・・と思うんですよ。
リサイクルとかは、それを商売にしていて、本当に欲しい人がお金を出して買っているで良いと思うのですが。
そういうことができるって言うのは、真剣に「自分が偉い」と思っているのでしょうね。
個性で、特別運動が得意な人がいたり、特別芸術の才能があったり、ということはあると思います。しかしどれを取って「エライ」と言うのでしょうか。
人間同士で、何を比べて、誰が誰よりエライとか、劣ってる、ってあるのでしょうか。たとえあったとしても平気でそれを行動に表せるのって、私の感覚とは違う。。。
配るものは人としてある程度公平に配るものなのでは・・?
そういう考え方(偉い人がいっぱいもらっていい)になったのは、やっぱり今の偏差値教育なのではないでしょうか。。。。その延長で、組織も役職やいろんな順位ができていて、あたかもそれがエライ順番になってしまっている。
戦後からそのような教育になったというのなら(もっと古くからそうかもしれませんが)、私たちの親世代がまずその洗脳を受け、そしてその考え方で私らの世代が育ち、同じように今の若者がその価値観で育っている訳で、もうそれが当然のようになっています。これはやっぱりおかしい。
古くは士農工商が必ずしも人間の価値の順番ではなかった(貧富では商人が一番で順が逆だったらしい)そういう価値観がもはや何もなくなったというか、やっぱりこれも欧米系?大陸系?の価値観なのではないかなぁと思う今日この頃です。
よくケーキを二人で公平に分けるのに、片方がケーキを半分に切って、もう片方の人がどちらがいいのか選ぶ、というのがあります。それが公平な分け方だと。
そういう感覚が最近ないですね。エライ人が分けて、自分で好きな方を取るのが当然なんですから。
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