きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

別れにトリセツを

2019-08-25 | 日記

朝、野菜の店に行く。
私も何気にここの週末常連さんである。今日はS田さんは居ないがS田さんのお友達がいた。会釈して「今日は珍しく晴れましたね」と言うと、「でも今日一日だけみたいよ。」と言う。「だから帰ったら布団をほさないと。」

野菜を買って、図書館が始まるまで時間つぶし。本屋さんにしようか。
本屋に入ると最近の面白そうな本がこれ面白そうに目をひくように飾ってある。
親しみやすい表紙にやわらかいタイトル。
私は面白そうな本を見つけると、タイトルを覚えて店舗の外に出る。そして検索をして図書館にある本ならば予約をかける。(これを数回繰り返す)

その中に「死に方のトリセツ」と言う本があった。
(死に方のトリセツ・・?終活の仕方の本だろうか)

思わず手に取りパラパラとめくるとところどころに漫画があるので、そこだけ拾い読みしてみる。この本はある一家のお父さんがガンになった。そして家で最期まで看取る場合の心構えや、看取られる人の気持などが書かれてアドバイスされている。残念ながらまた図書館にもないようだ。(そりゃ~できるだけ愛着のある家で家族と一緒にいたいけれど、現実には難しいと思われ。。)

もう図書館が開く時間だ。

お盆休みに本も整理した。今日はあれを処分に出す日である。
近藤麻理恵さんの本に「思い切って捨てるともう買いたいと思わなくなります」と書いてあったのは本当だった。あの労力を思うと・・・本も買うとたまるからなぁ。(読みたい時にすぐ読めないのが難だけど)

買ってもまた処分しなければならないと思うと、たしかに購買欲は薄れる。服も同じ。捨てるのが苦手だから買っても捨てられずたまってしまう。たまりにたまって、バッサリ処分する時に買ったことが虚しくなる。

いつかお別れするものならば、借り物でも充分なのではないか。
服も、車も、家電も、お金を出して買うものは、ずっと手元にあるものだと思っていたけれど、世の中は常に動いていて、それらはやがては不要になったり動かなくなったして、いつかこの手を離れていくものなのだ。

そして共に生きてる人間関係も、家族でさえも、時代は動いていて、やがては通り過ぎ去る人になる。そのために最近はお別れの「トリセツ」なるものもあるのだ。
そう言えばこの肉体さえも、(神様仏様から預かった)借り物だと誰かが言っていたなぁ。。。

借り物だから丁寧に扱ってその時がきたらまた神様にお返ししなくてはいけないのだとか。(魂が勉強するために神様仏様から借りた体なんだって)

借り物だと思えば、やがては通り過ぎてしまうものだと思えば、今自分の近くにあるもの、仕事も家族にも、友達にも感謝でき、大切にできるのではなかろうか。

「とりあえず、まだ(1週間)片付いてるね。」
台所でkekeに言う。



2 コメント

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>アリスさん (sake)
2019-08-25 21:08:21
徒然草ですか!そのような文章があったとは。吉田兼好さん、説得力がありますね。

どうせ永遠に住めないこの世に醜い姿になるまで生きていて何になろうか。長生きすると恥をかくことが多くなる。

まさに仰るとおり。当時は40、50でも長生き=醜い姿だったのでしょう。今は100年時代なんてよく言いますが、見目麗しいのは20代30代がいいところ。本来は子育てが終わったらもう終りなはずなんですよね。40そこそこで死ぬのが無難とは。

どうして人間は子育てが終わってもまだ生き続けるのか?と思っていましたが、本来は40そこそこで幕締めなのが、栄養が豊富で天敵がいないので、ズルズルと生きていられてしまっているのかもしれません。長生きを望んで世俗の欲望ばかり強くなりとは。

PCやスマホは生きている間ギリギリまで使うものですから処分が難しいですよね。もっとも、自分が心配するほど、子供は自分のことに関心が無く、PCの中身も隅々まで見たりはしないような気がします。。。
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最近は~ (アリス)
2019-08-25 13:27:33
年齢と共にこの世から離脱する残り時間が限られてきていると感じます。その間にお片付けけをする事が多い。特にPC、携帯は見逃せない。これをどう処分するか?その適当な時期はいつなのか?あはははは、考えるとなかなか難しいと感じます。

徒然草の一説を思いだします。

『かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮らす程だにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。住みはてぬ世に、醜きすがたを待ちえて、何かはせん。命長ければ辱多し。 長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそ、目安かるべけれ。

そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出でまじらはん事を思ひ、夕の日に子孫を愛して、榮行く末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、物のあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。』

あまり意味が解り難いので現代訳では

『かげろうのように朝生まれて夕べには死に、夏の蟬のように春秋の季節美を知らない短命な生物もいる。それに比べたら、人間の場合は心安らかに一年間を送れるというだけでもなんとものどかな話ではないか。もしも命に執着するとたとえ千年の長い年月を過ごしても、それはたった一夜の夢のようにはかなく感じるだろう。どうせ永遠には住めないこの世に醜い姿になるまで生きていて何になろうか。長生きすると恥をかくことも多くなる。
長くとも四十そこそこで死ぬのが無難というものだ。

その年齢を過ぎると容姿の衰えを恥じる気持ちがなくなり、平気で人前に出て社交的にふるまおうとする。 更に日没の太陽のような老齢の身で子孫を溺愛し、子孫の繁栄を見届けようと長生きを望んで世俗の欲望ばかり強くなり、深い感動の味わいもわからなくなっていくのはなんとも救いがたい気がする。 』

この文章は非常に解り易い。人間が年齢を重ねてこの世からお別れするという時は、樹木が徐々に枯れてエネルギーが減少しながらある日突然に息が出来なくなる。なので、決して目覚める事が無い夢の中に突入する事だろうと思います。

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