渋谷区渋谷(金王八幡宮の南)に文化の頃までは「堀の外稲荷」と称されていた「豊栄稲荷神社」(昔田中稲荷とも川端稲荷とも呼ばれていた)はある。創建は昭和36年(1961)渋谷駅近くに渋谷高重氏によって創建された「田中稲荷神社」と区内道玄坂に祀られていた「豊澤稲荷神社」が合祀されて現在の地に建立された。ご祭神は宇迦之御魂命、田中稻荷大神、豐澤稻荷大神である。当社は昭和36年(1961)社殿の扁額には両社の社号が刻まれている。家内安全、商売繁盛、開運厄除、子授安産など日々の生活の守り神として崇敬されいる。石段を上ると石の鳥居がありその前方に稲荷社特有の朱の鳥居が美しく並んでいる。境内奥に朱色鮮やかな「社殿」(妻入りの拝殿、流造の本殿)が建ち並ぶ。境内右手には「庚申塔群」が建っている。(2312)
港区虎ノ門に浄土真宗本願寺派寺院「梅上山光明寺」は鎮座している。浄榮が建暦2年(1212)霞ヶ関付近に天台宗僧侶・了栄が「常楽寺」として創建、慶長9年(1604)当地へ移転した。十数年後、関東滞在中の親鸞聖人の教化を機に浄土真宗に改宗する。1540年には本尊の阿弥陀如来像が光明を放ち疫病から人々を救ったと信じられ寺号を「光明寺」に改める。天正19年(1591)、徳川家康と親交のあった当寺第17世住職証高が紅梅に和歌を添えて献上、正保2年(1645)、三代将軍徳川家光が光明寺に立ち寄った際、家康が光明寺の梅を喜んだ故事を聞き山号を梅上山と改めるよう命ぜられた。激動の大正〜昭和にかけてまず1923年の関東大震災により本堂・庫裏等全焼。1945年3月10日の空襲により仮本堂・庫裏等が全焼する。終戦後は、地域からの要請もあり「西久保幼稚園」を設立。現在の本堂は1970年に完成した。現在は修復中である。当寺には江戸後期の漢学者・儒学者、市川鶴鳴の墓あり、永井荷風も参詣した謂れのある寺院である。(2312)
修復前
修復前
渋谷城跡の渋谷区渋谷に「金王八幡宮」(堀川天皇の御代、寛治6年=1092)は鎮座する。渋谷重光の創建。祭神は応神天皇である。御鎮座920年、社殿造営400年の歴史ある八幡宮である。社名にある金王は重家の嫡男常光がこの神社に祈願して「金剛夜叉明王」の化身として生まれたことに起因する。「大鳥居」を抜ける境内には頼朝が金王丸の誠忠を偲び名付け植えたという「金王桜」、慶長7年建立の「社殿」、「神門」、「神楽殿」、「金王丸影堂」、「参集殿」等が建ち並ぶ。ここ八幡宮は江戸時代「徳川将軍」の信仰を得ていたことや、「春日局」によって社殿と神門が造営されたとある。総漆塗りの朱色の「社殿」は江戸時代初期の建築様式を留める都内でも代表的な建造物で艶やかである。間もなく新年をむかえることから年越しの大祓にて心身を祓い清め心をリセットした。(2312)