津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本史談会3月例会ご案内

2025-03-09 07:32:59 | 熊本史談会
               記

期日:令和7年3月15日(第三・土曜日)午前9時45分~11時45分 
場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(熊本保健所入居ビル)1階「アイポート」
講題:西南戦争 弾丸を求めて~スナイドル銃弾をめぐる人間模様~
講演:西南戦争研究家・元熊本博物館学芸員 中原幹彦氏
 
一般参加自由:
    連絡不要、但し当日参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。
    お問い合わせ 090-9494‐3190  
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■宮崎駿氏の漱石愛

2025-03-08 06:59:49 | 展覧会

 夏目漱石は明治29年(1896)4月13日に池田ステンション(現・上熊本駅)に降り立った。来年は漱石来熊130年に当たると地元新聞が紹介している。
今でこそ「漱石来熊□□年」などと騒ぎ立てているが、事は漱石の孫娘聟の半藤一利氏の一言が発端になっているらしい。
半藤氏は来熊した際、熊本県知事に会う機会を得たとき、「ラフカディオ・ハーンや夏目漱石を何故大事にしないのか」と聞いたら「加藤清正と宮本武蔵
と阿蘇だけで充分」という答えだったという。

「もうそんな時代ではない」と懇々とといたら、その後「漱石来熊百年」ということで顕彰が始まったという。
時の熊本県知事は福島譲二氏である。良く聞き届けられた。
そんな時期に金峰山の峠の茶屋近くに漱石の「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」の句碑が建てられたが、半藤氏の解説が無断で使われたという。

それから来年で30年ということに成るが、熊本の文化人と称する人たちもこんな為体である。
この話は半藤一利氏と宮崎駿氏の対談「腰抜け愛国談義」の受け売りである。

 この本の冒頭部分では両氏の「草枕」談議に花が咲いている。宮崎駿氏は漱石命というような方のようだが、特に「草枕」は特別らしく何回読んだか判
らないと言われる。

昂じてジブリのスタッフ200数十人を引き連れて小天温泉を訪れている。調べてみると2010年11月10日の事らしい。
この本は2013年8月が初版だから、二人の対談の一・二年前の話である。
この事を、熊本大学の教養教育 肥後熊本学ブックレット版に当時熊本大学 教育学部 の跡上史郎准教授が一文としておられる。
        https://web-pamphlet.jp/kumamoto-u/2022e5/pageindices/index11.html#page=11


そんなお二人の対談は大変面白くて読んでいて時間が立つのを忘れる。
宮崎駿氏は半藤氏の著書の中で一番好きなのは「漱石先生ぞな、もし」だと言われる。
私も大好きで所蔵しているが、これこそ何度読んだか判らない。半藤氏によって漱石先生の事をいろいろ知った。感謝。

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■五反百姓

2025-03-07 07:18:19 | 言葉

 「五反百姓」という言葉があるが、「五反百姓出ず入らず」とも言うように、「五反の農地があれば家族(5~6人程度)が借金せずに何とか暮らしていけるが、金が残ることもない」という意味である。
夫婦二人に子供一人、爺様・ばあ様と下人一人と言った按配で、牛か馬が一頭いる。
「1反=300坪=991,7㎡」ということからすると、現代世界では、市街地に5反などという土地を持っているとデベロッパーに狙われてしまう。
米の収量は、江戸時代大方1反あたり1~1,2石とすると、5反の農地を有する百姓は5~6石の収量があったことになる。
四公六民として手元に残るのは3~3,6石である。これでは「出ず入らず」とはいかない、別途畠を持ち色々な作物を耕作したり、夜なべ仕事をしたりしての話となる。
 しかし、熊本の百姓衆の田畑面積は大変零細だったという。
矢部郷を舞台とした「仁助咄」というものが残されているが、矢部教育委員会発行の冊子「仁助咄」の「序文にかえて」に於いては、一人一日分の食料は、「柚木村=1合1勺7才」「猿渡村=6勺9才」と言った数字が紹介されているが、まさに「仁助咄」の冒頭にある、正月を迎えても「餅もなく、濁り酒もなし」という有様である。

 一方侍の世界では「扶持米」というものがあるが、「一人5合×360日=1.8石」が一人扶持として、三人扶持・五人扶持といった形で支給される。
当然のことながら、食料としてではなく生活費であるから、一部を現金化して所要の品を賄うことに成るが、百姓の世界と侍の世界ではこのような歴然とした違いが存在していた。

 「仁助咄」の「序文にかえて」を書かれた井上清一氏は、かつての矢部町の初めての名誉町民となられた歴史家だが、「宝暦の改革は農民にとっては改悪であった」と断言されているが、私も同じ思いを持つ。
重賢公を名君とするのは、残された関係する書物などがすべて、藩の体制側の人物の著であり頌徳碑的儀礼的文献だと手厳しい。
現実的には飢餓者が多く見受けられたし、そんな時代に旅行者として肥後の地を歩いた古川古照軒の「西遊雑記」などの記述をみると、肥後の地の最悪の状況の時期を目の当たりにして記録に残されてしまった。
こちらの方が真実なのだろうと思わざるを得ない。何時の時代も歴史は体制側のものとしてつづられて来た。
ひねくれ者である私は「西遊雑記」や「仁助咄」を精読して、歴史の裏側をのぞき見しようと躍起になっている。

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■不可解・・熊本城不開門の屋根

2025-03-06 07:08:54 | 歴史

 ある方から「熊本城の不開門(あかずのもん)の屋根は何であんな形ですか、あなたは建築士さんらしいからご存知でしょう?」とお問い合わせいただいた。
御城フアンで全国の御城を見て回っておられるという。
「屋根の形に良く気付かれましたネ」と御返事の冒頭に書いたが、下の写真のように城内から門をくぐり振り返ると、その屋根は「左側は切妻、右側は入母屋」で
誠に不可解な形をしていることが判る。こういう屋根のかけ方は、よほどの理由がない限りあり得ない。

                                                               昭和36年の改修時の写真

 これは何を意味するのか?切妻側にはかって建物が伸びていたことが判る。
現在東竹之丸には、高石垣の上に「東十八間櫓-北十八間櫓-五間櫓」と続いているが、かっては、これに続いて六間櫓が続いており「矩(かね)の手」に曲がって
櫓門である不開門の櫓部分とつながっていた。(上記写真左手に五間櫓の切妻が見える)

何故この六間櫓が切り離されたのか、それが何時なのかは現況私も承知していないが、お問い合わせもいただいたことだから何とか勉強しなければならない。

                                 

 上記案内板の図の左上部分に「六間櫓」があり、下方の不開門に繋がっていることが判る。明和六年の絵図とあることからそれ以降何らかの理由で取り壊された
ということであろう。

ちなみに、不開門も先の大地震で石垣も含め倒壊の被害を受けたが、それ以前のものは慶應二年の建物(棟札)であったという。

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■お安く読むー宮崎駿の本が読みたくて

2025-03-05 08:58:21 | 書籍・読書

 

     宮崎駿氏が半藤一利氏、養老孟司氏を相手にそれぞれどのような話をされるのかに大変興味がある。
     Amazonプライムに注文したので、明日は到着する。楽しみ・・・

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■小栗上野介と木村鉄太

2025-03-05 07:00:02 | 人物

 27年の大河ドラマは小栗上野介忠順を主人公とする「逆族の幕臣」だそうな。
来年の豊臣秀長も期待しているが、27年も大いに興味深い。精々健康に過ごして拝見したいものだ。
作家の司馬遼太郎は勝海舟と並べて「明治の父」と呼んでいるようだが、一方ではライバルであったという。

上野介は勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任した江戸幕府の能吏であるとともに、勝とは違い薩長に対する主戦論者と云われる気骨の人であった。
慶應4年(1868)斬首された。「逆族の幕臣」の逆族とはそのことを差すのであろうか。
そんな小栗は万延元年(1860)遣米使節団の監使(御目付)として、従者9人と共に参加している。
ご厚誼をいただいた高橋敏先生に「小栗上野介忠順と幕末維新ー『小栗日記』を読む」という著書があることは承知していたが、まだ購入には至っていない。この機会に読んでみようと思っている。

                           

 その遣米使節団の従者の中に、熊本藩の木村鉄太の名前がある。
小栗上野介の従者としてであるが、何故熊本藩士が小栗の従者となり得たのか、そんなことからしても大変興味深い。
随分以前、木村鉄太のお墓を史談会の皆さんと尋ねたことがあった。
鉄太は帰国後の文久二年(1862)には亡くなっており、その才能が散華したことに大いなる無念さを感じざるを得ない。
それ故に鉄太についての略歴なども詳しくは知られていないように思う。
詳細は松本寿三郎先生の論考に御頼りする。
要約筆記 木村鉄太 日本開国の先駆者 崇城大学教授 松本 寿三郎
この機会に更なる検証、顕彰が行われるべきであろう。

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■織田氏庶流・津田氏

2025-03-04 07:03:42 | 人物

 大変唐突だが、今日は「津田氏」について復習する。同姓の方からお問い合わせをいただいたが先祖附が手元になく、少々時間をいただくことにした。
細川家家臣には織田氏庶流とされる数家の津田氏が存在している。
ウイキペディアによると、「織田氏の直系から見て庶流に当たる一門は津田氏を名乗り、主家との厳格なる区別を付けていた。」としている。

 細川藩においては、尾張守護で信長により官職停止となった名門・斯波義近(のち津川氏)の娘が信長の弟信包の息・信重に嫁いで、その息・三十郎が細川家に
仕えている。
義近の息・津川辰珍が先んじて忠利代豊前に於いて細川家臣となっており、三十郎の召し出しは辰珍の紹介によるものではなかろうか。

辰珍は甥・三十郎のために自らの知行1,000石の内300石を分知して、三十郎に与えたりしている。

   斯波義近---+-----近利-----数馬-----辰房
        |                                 ↓
        +---四郎右衛門辰珍===辰房---辰行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩・津川家
        |
+---織田信長  +-----女
|             ‖--------津田十三郎長相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩・津田家
+----------信包-------信重

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 一方、細川家の書簡などに時折見かける津田與庵なる人物がいる。
その子孫が同じく細川家家臣となっているが、津田家侍帳によると、織田大和守敏定(尾州岩倉城主)ー織田玄蕃(頭)ー七郎(七郎左衛門)ー小平太(興庵)と続
いている事が判る。信長に至る家系と関連付けると次のような略系図となる。

  敏定---+---信定---信秀---信長
     |
     | 五男・玄蕃頭
     +---秀敏---七郎---興庵 

津田興庵については、大日本近代史料・細川家史料の人物索引は次のように解説している。
  初正秀、小平次、興庵と称す、織田信長に仕え、滝川一益に属し、上野松枝城主。のち豊臣秀吉・徳川家康に仕う。慶長五、六年頃、
  四千十石余、奏者番。諸国の地図租税の員数改めに、関西三十三ヶ国を奉行す。元和二年、家康の没後剃髪して京都に退隠す。
  寛永十二年正月廿九日没。年九〇。

 その與庵の孫にあたる人を初代とする津田家が二家あった。
                           初代        8代
   南東25‐14 津田小平次(與庵)ー小平次(了庵)ー七左衛門ーーー克己       津田克己家

                               初代        8代
   南東25‐15 津田七郎(七左衛門)ー小平次(了庵)ー勘助ー勘左衛門ーーー政之丞  津田政之丞家

 そして今一家、一族と思われる津田太郎左衛門家(南東25-13)もある。

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■伊勢路に対する「硫黄路???」

2025-03-03 09:44:10 | 歴史

 熊本から江戸への旅程を記した史料を見ているが、「大坂ゟ江戸迄」において、「弐百八拾余-伊勢路」と共に「弐百九拾五里半-硫黄路」とある。
引用史料は「肥集録・第26-熊本・江戸迄道規之事(肥後国地誌集p197)」とある。
肥後国地誌集は幸い所蔵しているので調べてみると、「硫黄路」の文字は間違いない。
一方「大坂ゟ江戸迄」の二行前には「鶴崎ゟ大阪迄海上硫黄路百三拾弐里」という記述も見える。

「伊勢路」に対する「硫黄路」かと思ったら、鶴崎から大坂に至る海上路にも硫黄路が見えて、ますますわからなくなってきた。
ググってみても全く反応がない。「いおう路」「いおうぢ」等も試してみたがこれも駄目である。
「鶴崎ゟ大阪迄海上硫黄路」という記述からすると、硫黄路とは海路なのかもしれないが、単純に伊勢路との旅程の差・15里半(62㌔)」がそれだと断定も出来ないようにも思える。

全くお手上げの状態となり、頭から離れない厄介ごととなった。ご存じの方が居られたらご教示をお願いしたい。

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■雛まつり

2025-03-03 07:27:46 | 徒然

 この時期に成ると俳人・富安風生のこの句を思い出す。

           老妻の飾りし雛を見てやりぬ  風生

富安先生は昭和12年逓信省次官を最後に官界を離れると、その後一時期電波監理委員会委員長などの要職に就かれたが、その後は一貫して俳諧の世界に身を置かれている。
勲一等叙勲(昭和45年-86歳)、芸術院会員(昭和49年-90歳)、昭和54年2月22日死去・享年95。

富安ご夫妻にはお子様が居られなかった。それだけに、奥様に対する優しいまなざしが伺い知れて心暖かくなる。
年を経られても雛飾りをなさるお気持ちは、お子様のない寂しさの裏返しかもしれない。
雛飾る老妻にふと不憫あり」という句もあるが、こちらは直接的で私は先の句が好みである。

          妻老いぬ春の炬燵に額ふせ
          われを知る妻にしくなく葉唐辛子

昭和43年84歳の時にご夫婦の金婚祝賀会が開かれている。奥様もご長寿であったことが伺えてほっとする。
小平霊園のお墓には「夕顔の一つの花に夫婦かな」と碑に刻してあるというが、夫婦愛に満ちたお二人の人生が見て取れる。

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■勲章

2025-03-02 07:23:54 | 徒然

 齢を重ねるといろいろ幼いころの思い出が浮かぶ。
我が家に何やら勲章めいたものがあった。それもメダル?部分だけだった。それを私は金づちで叩いて壊してしまったのだ。
6・7歳のころだと思うが、多分お目玉を食らったと思うのだが記憶にはない。

何でこんなものがあるのか不思議であった。何やらイミテーションの宝石のようなものが並んでいた。
後に姉に聞いたところによると「お祖父ちゃんのじゃない?」と言う。


 このことが気になって色々調べていたら、最近になってまったく同じデザインの勲章を見つけ出した。旧・瑞宝章だ。
一等から八等まであったというが、色も形も同じように思うがはめ込まれている宝石らしきもの(?)が異なるのかもしれない。
しかし基本的にはこれに間違いないと確信している。

                   

 さて、何故この勲章が我が家に残されていたのか。姉は「祖父のもの」というが、母からも、母方の祖母からもそんな話は聞いた
ことがない。

瑞宝章は「国及び地方公共団体の公務」または「公共的な業務」に長年にわたり従事して功労を積み重ね、成績を挙げた者に授与さ
れるという。さすがに受賞者リストというものが公開されている。Category:旧瑞宝章受章者

因みに祖父は、現北朝鮮の平壌で「朝鮮日本語学校」の校長をしていたから、もしかしたらと思い上記リストを調べてみたが・ない。
そうすると、この瑞宝章のメダルは何方の者なのか?大いなる闇の中である。
幼いころのいたずらで壊してしまったこのメダルが、我が家には関係なさそうでホッとはしている。                 

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■漱ぐ・雪ぐ=すすぐ

2025-03-01 07:25:59 | 言葉

 夏目漱石の「草枕」を読みながらふと思った。「漱石」というペンネームの由来についてだ。
「石を漱ぐ」とはどういう意味なのか、ほかに読みようがあるのかと思って調べたのは四半世紀ほど前の事だ。
インターネットの世界は誠にありがたく、すぐさまその回答を得ることが出来た。
賢明なる諸兄はすでにご存じの事かと思うが、これは漢詩の錯誤に由来していた。漱石はどうやら「錯誤」の言葉をさかてにとって自分のペンネームとしたらしい。
中国の故事に、「枕石漱水」(=流れに漱(くちすす)ぎ石に枕す)という言葉があり、俗世間から離れて川の流れで口をすすいで、石を枕として眠るような引退生活を送りたい」という意であるという。
ある人物が自らも引退するにあたってこの言葉を引用したが、間違って「漱石枕流」としてしまった。
友人が間違いを見つけてはやし立てると、本人は「石で口を漱ぐのは歯を磨くため、流れに枕するのは耳を洗うため」と強弁した。
つまるところ「漱石枕流」は「負け惜しみ、頑固者」の意味となってしまった。
漱石はこれをよく承知したうえでペンネームとしたというが、今手元にある小説「草枕」の「」や「=情に棹させばされる」という文字も案外「枕流」のこじ付けかもしれない。

 古文を読んでいるとたまに「雪ぐ」という文字に出くわす。例えば「汚名を雪ぐ」といった具合だが、これは「すすぐ」というよりも「そそぐ」である。
「雪辱」という言葉があるが、同様の意味を持つ。これらの場合においては「そそぐ=すすぐ」は雪でなければならない。
降り積もる雪できれいに覆い隠そうとでもいうのであろう。
日本各地の寒波もそろそろ打ち止めに願いたいものだが、落雪事故で亡くなる人が出たり、路面凍結で交通事故が発生したり、こちらの汚名は隠し切れない現実だ。

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■「宝暦の改革」の私の評価

2025-02-28 06:57:49 | 歴史

 一連の京都シリーズ「京都ぎらい・京都ぎらい官能編etc」の著者で私が敬愛する井上章一先生は、国際日本文化研究センター(日文研)の所長であられる。
この日文研には、年に2回発行される学術雑誌「日本研究」がある。現在69号が既刊となっているが、私は時折その内容をチェックしている。

 そんな中に、2021年には日文研の教授となられた歴史家・磯田道史氏の論考「藩政改革の伝搬-熊本藩宝暦改革と水戸藩寛政改革」が、2009年(当時は客員准教授)の『日本研究』40号に掲載されているのを発見した。
検索してみるとこの論考はWEBで公開されている。 nk40001.pdf (896.3 kB)
40ページに及ぶものだが、プリントアウトして精読している。熊本藩の宝暦の改革がこのように評価されることは誇らしいことである。

 藩主細川重賢を大奉行・堀平太左衛門が補佐して実行された熊本藩における宝暦の改革とは、次の如くである。
    1、行政改革  大奉行・堀平太左衛門の任用、六奉行・十二分職とする機構改革、(2~5の改革の下準備)
                                          人材登用のための「足し高制」の採り入れ

    2、法制改革  刑法改革-懲役刑の採り入れ、「御刑法草書」の編纂、穿鑿役を設け行政と司法を分離、
             衣服令の施行(封建的身分制の強化につながった)
    3、文教政策  藩校・時習館の設立と朱子学による教育、再春館(医学)、蕃滋園(薬園)の設立
    4、財政改革  世減の規矩(新知知行者の減知)ーーーーーーーーーーーーーーーーーー(旧知知行者の保護)
    5、農業改革  地引合せ(いわゆる検地による隠田畑700町歩の摘発)

 私は「財政改革」についてはいささかの異論がある。
いわゆる「世減の規矩(新知知行の減知)」と呼ばれるものは、「新知」の者だけに限定されたことである。(約17万石)
「旧知」の者は既得権益が残されて、まったく痛みを感ずることなく明治に至っている。保守温存政策ともいえる。
「新知」同様とはいかないまでも、例えば5%ほどでも減知を行い、痛みを共有すべきではなかったのか。
先に■宝暦の改革の限界を書いたが、旧知のお宅の知行の合計は432千石程になる。5%減ずれば2万石ほど削減できたはずだ。

藩主・重賢と大奉行・堀平太左衛門の願いは、100%完成には至らず、二人の存命の内にまた財政は悪化の途をたどり始める。
つまるところ、開明的な藩主重賢や堀の死去後、執政の権力は家老の元へ帰し、誠に保守的な路線へと逆行を始めたというべきであろう。

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■段山橋とか陣橋とか・・

2025-02-27 07:13:21 | 展覧会

 昨日は史談会グループのLINEの「段山橋」の事で、私は大失態してしまった。
LINEに紹介された写真を見て、私が「これは陣の橋では」と指摘したのだが、どうも私の勘違いのようで、結果取り消させていただいた。
段山という地域は、西南の役では井芹川が真っ赤に地で染まったという激戦の地である。

「段山(だにやま)橋」は、熊本城城地が西に低山を飛び出させた地域で、その先の島崎地域へ通じていた。
井芹川を渡る為の小さな石橋があったのだが、これを戦の前に落としておけば、薩軍の段山への侵入を抑えられたのではないかと思うのだが、そんな時間さえもなかったということだろうか?
これの橋が同じ川の上流部にある「陣の橋」と形も構造も類似している。
「陣橋」は熊本城の森本櫓(現存せず)の真下に井芹川が蛇行していて、城内から本妙寺へ通ずる大切な要路に設けられていた。

その先に「杉塘(すぎども)」が続いたが、いまは地名のみ残されている。

「段山橋」は果たしていつ頃に架橋されたのだろうかと思い、「地名辞典」や「熊本県百科事典」などを検索するが全く触れられていない。「陣の橋」も同様である。これはいかん・・・

随分以前熊本城と京町台を結ぶ「磐根橋」の由来を調べたことがあるが、これもいまだに謎のままで何故「磐根」と付けたのかはっきりしない。

これは又、図書館のレファレンスにお願いしようかなどと安直な考えがよぎったが、その前に一応の努力をしなければなるまい。
まだまだ、知らないことが多すぎる。

             

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■講演会「熊本藩士上田久兵衛と幕末維新」を前にして

2025-02-26 07:25:00 | 講演会

 3月8日に熊本大学で行われる講演会「熊本藩士上田久兵衛と幕末維新」を、血縁の一人として楽しみにしている。
東京大学史料編纂所の資料からの「新しい知見」とあるが、上田久兵衛に関わる「幕末京都の政局と朝廷-肥後藩京都留守居役の書状・日記から見た」は当時の編纂所所長の宮地正人教授のご苦労によっての成果である。
その後の「新しい知見」に興味が尽きない。
宮内庁書陵部からのご出席は、察するところ「中川宮」と上田久兵衛との親しい交流をお話になるのではないかと思っている。

熊本の近世史において、京都留守居役・上田久兵衛の仕事ぶりは忘れられつつある。
私は一時期の「公武合体」運動の大きなうねりの中で熊本藩の存在を大いに発揮した人物として評価されるべきだと思っている。

倒幕により薩長勢力に牛耳られた近世から近代にかけての戦争に向かった結果を見る時、公武合体による幅広い衆議による国家運営がなされていたならば?などと、「歴史にもしもはない」と承知しながら考えてしまう。

熊本における上田久兵衛の研究家・鈴木喬氏は、上田久兵衛について「ひとえに細川韶邦につかえた」人と評されている。
つまり、韶邦の「公武合体」に対する熱意を実現させたいという思いが京都におけるエネルギーとなっていた。
幕末の熊本の政局は「実学派VS学校党」で語られることが多いように思うが、「公武合体」は一時期党派を超えて藩の総意であった。
しかし時の流れに抗えることが出来ず執政等は藩是を覆し、久兵衛は免職となった。
その執政等は韶邦を支えることも出来ず、一部の勢力が朝廷の意をかりて韶邦を藩主の座から引きずり下ろした。
そして改革派の護久、その弟・護美を登場させた。一種のクーデターともいえる。

 韶邦夫人は一条忠香の養女で三条実美の実妹である。明治天皇の皇后・美子は一条忠香の実娘である。
明治五年、明治大帝と皇后は、韶邦の今戸邸をお訪ねになっている。
そういう意味で、韶邦が朝廷を疎かにするとは考え難い。ひとえに「公武合体」を理想に掲げた人であったと確信する。
我家に伝わる話によると、韶邦が東京の今戸邸で病に伏すと、久兵衛は一人熊本から見舞のために上京したという。
「ひとえに細川韶邦につかえた」久兵衛を誇らしく思う。

そして西南戦争に当たっては、川尻の前の奉行職の名の元に、川尻の町を戦火から守るべく奔走したが、新政府により罪を着せられて斬首された。
熊本大学永青文庫研究センターの今村直樹先生の「明治維新後の上田休一廃藩置県・細川家・西南戦争一」を伺えることも楽しみである。
久兵衛の無念の死から再来年は150年に成る。つまり、西南戦争で多くの被害者がでた明治10年の事だが、私は静かに禅定寺の彼の墓前に手を合せるのみである。

 

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■ふきのとう

2025-02-25 08:04:01 | 展覧会

 過日スーパーで「ふきのとう」がパック詰めにされて売られていることに気づいた。
思わず買おうかと思ったが、今の妻ではとても料理することはできないのではないかと思い、諦めた。

「ふきのとう」は漢字では「蕗の薹」である。「蕗」の字は何方も書くことはできるだろうが「薹」は簡単には参らぬ。
私は「草冠に吉、宀冠の点を取って室」と覚えている。

             

俳人「富安風生」氏がよく、「漢字」を取り上げて作句されている。

       むつかしき辭表のの辭の字冬夕焼け
       寒といふ字の一劃々々の寒さ

その富安先生ならば、「蕗の薹」をどう句にされるだろうかと思って調べてみると、お父君との思い出として「蕗の薹」が登場していた。

       蕗の薹炙れば父と居るごとし 
       蕗の薹炙ればせちに父懐ふ

そうか炙ったままで食べる手があると気づいた。
しかし、蕗の薹は「薹」がたったものでも、「蕗」自身もうっすらとした苦みがたまらない。

 

 

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